「戦艦大和の最期」を手に入れる事が出来た。
この本が存在することは知っていたが、広島の古本屋には無く、根気よくネットで探していた。 有るには有ったが、帯が無かったり、痛みが酷かったりで、何より高価なので迷っていた。 偶然にも先週、古本屋のサイトの中で見つけたのがこの本だ。 初版本である。 定価百六十円、地方では百六十五円と二重価格に成っていたようだ。 当初発禁に成っていたが、昭和二十七年独立と共に発行されたいきさつが帯に記載されている。 同じものが他にもあったが、一万円以上の値が付いていたので、躊躇していた。 何故この本が読みたかったのかは、此の戦艦大和の燃料を、西日本の全ての石油タンクから、底に残っていた不純物の多いい重油を命がけで取り出して、精製した人と十五歳の時同じ病室でひと夏過ごした時、その話を聞いていたからである。 その作業は将に命を懸けた作業だったそうだ。 しかしその精製した燃料は、大和に積まれることは知らされていなかったそうである。 呉湾には、多くの軍艦が停泊していたが、燃料が無く出撃出来ない状況だったそうだ。 江田島の湾内や、宮島の沖にも燃料が無く動かせない軍艦が多く存在したそうである。 その話をしてくれた方は、三波春夫のファンで、広島支部の会長をされていた。 三波春夫が、広島公演の時見舞いに来れ、大学病院が大騒動に成った。 大和の燃料を精製するに当たり、西日本の多くの石油タンクの底に残っていた残油を取り出すため、バケツで挑戦したそうである。 幾万リットルの残油を一班三十人で三交代送風機のみの環境で取り出したそうである。 将にその作業は「特攻」に近かったそうだ。 回収した残油を坂町の精製処理場で精製し、海軍に引き渡して、その後それが大和に積まれたらしいと聞いた時、あればかしの燃料で、何処に行くのだろうか疑問に思ったそうである。 その方が四十五歳の時だったそうだ。