この塔は、原爆ドームの南隣に位置する。旧猿楽町通りの西詰めにある。この猿楽町通りは、鈴木三重吉の生誕地である
この塔の建設の由来は、政府は動員学徒の内、氏名、死亡日時の明確な者だけ、靖国神社に合祀することを決めた。それを受けて、廣島の動員学徒犠牲者の家族が全国に呼びかけ、名簿作成運動を始めたところ、全国の動員学徒の遺族から名簿と共に寄付金が寄せられた。
この運動の賛同者の中には、彫刻家の円鍔勝三氏がおり、この塔の銅像と、有田焼の陶板は全て氏の手作りによるものである。
八月六日、市内の職場や建物疎開に動員されていた学徒は、国民学校高等科以上の8,000人以上で、その内約6,300人が犠牲となった。なぜ約なのか。
家族、縁者共に一瞬時に犠牲となり、確認がいまだ取れない方々が存在するからである。
戸籍原本は、高田郡吉田町に疎開されていたため、復元可能であったが、戦後その原本を公開されることは無かった。伊勢湾台風時の名古屋の時と同じである。松本清張は、その盲点を利用し、「点と線」を書き表した。
同じことが、戦後間もない廣島でもあった。
この慰霊塔の正面に、銅版画が四枚はめ込まれている。その一枚の中に、次の一文が、鋳込まれている。
又、塔の裏面には動員学徒として、戦争の犠牲となった全国の動員学徒の母校の名が刻まれている。その数、北は青森から南は沖縄、旧満州に及び、その数、352校である。犠牲者は、女子挺身隊、義勇隊を含め、約10,000人以上である。
碑文
第二次世界大戦中 増産協力等 いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は全国にわたり三百数十万人 あたら青春の光輝と学究の本文を犠牲にしつつ挺身した者の内 戦禍にたおれた者は一万有余人 その六千余人は原爆死を遂げた この塔は明眸青雲を望み 将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく 祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと 有志同胞の手によってうち建てた
慰霊塔のそばには、あの日を連想させる「カンナ」が盛りと咲いていた。廣島を訪れる時、あの日には、「夾竹桃」と「カンナ」が咲き誇っていたことを想像していただきたいと思います。
焼け野原で最初に芽吹いたのは、「夾竹桃」と「カンナ」であったと。それに勇気をもらい焼け野が原からの復興が始まったのです。
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