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 藤森照幸的「心」(最年少被爆者、アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

蛹が二つ惨殺された

2020-06-20 15:38:44 | 日記・エッセイ・コラム

 キアゲハの蛹が、なかなか羽化しないのでよくよく検査したら、蛹の中は蟻に食い尽くされて、皮ばかりに成っていた。 天敵がいたとは思いも拠らなかった。 そう言えば昨日、蛹の周りに蟻が集まってはいた。 連中は、相手が生きて居ようが死んでいようが、食料に成るものは、何でも食べる様だ。 楽しみが一つなくなってしまった。 国会議員の「河井ご夫婦」は、おそろいで逮捕された。 溜飲が下がる思いだ。 広島の安佐南区が地元だが、三年前の大水害。 今なお、復旧工事をやっている。 そんな地元の事で、この方が活躍したとは聞いていない。 むしろ、広島県知事が東京に陳情に出かけても、この方だけは合う事をしないそうだ。 尤も、亀井静香元大臣が、この方を嫌っているので、同席出来ないと言う事だろう。 亀井静香元議員は、引退したのでと思っていたが、今もってこの元議員の力は薄れていないらしい。 亀井は「修道」、河井は「学院」と、出身校も、ライバル校である。 「修道」は儒教、「学院」は、カソリック 馬が合うはずがない。 安倍総理も、変梃りんなお方を味方にしようとお思いになった物だ。 要するに、反岸田、反宮沢なのであろう。 岸田と宮沢はご親戚である。 これに加えて、弥勒の里の常石造船、武田学園広島文教大学もご親戚である。 はてさて、これで広島三区の衆議院と、参議院の議席が空き家に成った。 次に名乗りを上げられるのは何方であろうか、‥‥。 考えても名前が浮かばない。 広島も人材不足である。 そうだ、女優の「東 ちずる」さん、参議院に立候補してくれませんか、‥‥。 私が大きな声を出しても、効き目が無くなってから十数年が経った。 

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血液型

2020-06-19 14:14:12 | 日記・エッセイ・コラム

 ネットに新コロナの記事が出ない日は無い。 その中で気になっている記事がある。 血液型でリスクの差があるそうだ。 私は典型的な「A」型である。 この「A」型が、感染しやすいし、感染した後、一番重篤化しやすいそうだ。 ようするに、罹ると死ぬ事に成るらしい。 「A」型は頭脳明晰、動物的には優しく、他人から慕われる、とよく言われているが、そんな事は無い。 男兄弟三人は、全員「A」型だが、二番目と三番目は頭脳明晰では無いし、(二番目は落ちこぼれと言われた)、長男の私は、優しさが足りないし、三男は冷淡な性格である。 ただ、女性から慕われることは確かである。 三人とも押しかけ女房と結婚している。 その為に、奥様に頭が上がらない状態だ。 まあこの事は、どの家庭でも程度の差があるが、似たり寄ったりだろう。 心配性なところもあるらしい。 この二日間、雨脚の強さに、昨晩などは一睡もしていない。 避難は何処が良かろうか、「C」さんはどうして居るだろうか、「D」さん親子は車が無いので‥‥そんなこんなで眠れなかったが、夜明け頃からは雨も止み、青空さえも覗いている。 「A」型は、心配性であることは間違いない。 「AB」型の奥様は、一晩中高いびきでお休みであった。 難聴の奥様は気楽なものである。 雨音など聞こえないし‥‥。 「AB」型と言っても、どちらかと言えば「B」型に近いのではないだろうかと思われる。 何をやっても、取り付かれたように邁進してしまう傾向がある。 そんな事を一晩中考えながら、過ごしていた。 それにしても物凄い雨脚であったことは確かだ。 何処かで被害が出て居なければ良いのだが。

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あっちもこっちも不倫、不倫、不倫、‥‥

2020-06-18 13:38:53 | 日記・エッセイ・コラム

 『アンジャッシュ』渡部建の不倫騒動が騒がしいと思っていたら、逮捕間近の国会議員 「河井夫婦」も、不倫漬けだったらしい。 尤も地元では、この夫婦は政治家に成る為の偽装結婚と噂されていた。 どうも当たりだったらしい。 同じ選挙区に住む私や私の仲間は、当選できるのが不思議だったのだが、なるほど‥‥「買収」と言う手が有ったのかと、今更ながら噂が嘘でなかったことに驚いている。 それにしても安倍政権に成って、変梃りんな事件ばっかりだ。 その極めつけが、新コロナなんて迷惑至極である。 と言っても此のコロナは、安倍ちゃんの起こした物ではないが。 昨日までの天気が一変して、二十度に満たない気温の中で、長袖シャツを取り出して着て居る。 ネットのニュースも、不倫、不倫‥…。 何処かに善いニュースは無いものか…とそんな気分である。 ところで、「赤い羽根募金」は今年はどうなったのだろうか。 例年ならば、五月には、町内会を通して要請が来るのだが、未だ来ない。 尤も来たら 「日本赤十字社」の常識を疑わなくてはならなくなる。 紛争地に、医師や看護師を送り、人道的支援を行っているが、今回のコロナ騒動で、国内では一度も、「日本赤十字」が頑張っているなど聞こえてこなかった。 国民に十万円の支援を国がする中で、まさか「赤い羽根共同募金」をするとは思えぬが、皇后陛下が名誉総裁をお勤めの団体である。 「出来ない事はない」くらいの感覚らしいので、私も断言出来ないでいる。 何れにしても、大阪の活躍が目立つ。 国立大阪大学と、市立大阪大学の共同研究で、コロナワクチンを開発したそうである。 試験運用を始めるらしい。 成功であって欲しい物である。 安倍ちゃんは、早々とアメリカ企業の開発チームの商品に飛びついて、購入交渉を始めたというニュースが、二、三日前に流れたが、まさか日本の大阪の方が早く開発に、成功するとは思わまかったのだろう。 「灯台下暗し」とは此の事だ。 尤も、安倍ちゃんの足を引っ張っているのは、足元の皆さんなのだ。 「河井夫婦」も、安倍ちゃんに近い位置にいる一人である。

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行間に視える物 (戦艦大和の最期を読んで)

2020-06-17 16:09:14 | 日記・エッセイ・コラム

 学徒動員で、大和に乗った著者が見たのは、二種類の職業軍人だった。 古武士の様な士官と、保身のみ考える士官が存在したようだ。 それらの指揮官の元で戦った記録と言った方が良いかもしれない。 駆逐艦に救助されて生還した著者は、終戦まで軟禁状態になっていたようである。 大和の沈没や、アメリカ軍の物量を肌で感じた人間を、野放しに出来なかったのだろう。 この本を読みながら、アメリカと言う国を考えていた。 大陸に日本の傀儡政権 「満州国」を作ったが、その満州国で、私の父は満州航空の整備教官をしていた。 満州航空に入社できたことすら不思議なのだが、小学校卒の父が、ハルピン空港長の指示で、睡眠時間三時間の猛勉強をさせられた結果入社できたそうだ。 そこからは頭の良さと器用さで、一年で整備士を指導する教官に成った。 その満州航空は、北京、大連、奉天、新京、ハルピン、松江、広島、新潟、東京に航空路を持っていたそうである。 アメリカと、戦争状態になる以前に購入した、DC-3型機と、三菱が作ったM-3が主力であったそうだ。 その飛行機を飛ばすのに必要な燃料は、なんと、アメリカのスタンダード石油から買っていたそうである。 日本がアメリカと戦争状態になっても、燃料は送られてきたそうだ。 満州国は日本ではないという考えだったそうである。 定期的に大連迄、小型タンカーが運んで来たという。 しかしその燃料の管理は厳しく、一滴も日本軍には使わせなかったそうだ。 もしそのようなことが有れば、直ちに燃料は止まったであろうと。 軍も心得ていて、手を出さなかったそうである。 万が一の時、脱出の方法は、満州航空の飛行機を使うつもりであったそうである。 日本から大陸に進出した大手企業は、大連にその主要事務所を置いていたそうだ。 そして、かなりの人間が乗れる船舶を所有していて、いざと言う時には、その船で上層部は脱出する事となっていたそうである。 そんな父の話を思い出しながら、この本を読んでいる。 現に終戦時、愛新覚羅溥儀の弟は、丹原ハルビン空港長の飛行機で松江に脱出したそうである。 戦後は竹原市で生活していたそうだ。   アメリカ資本主義の本質が見えてくる話だ。 後に東亜航空を立ち上げた松下氏も、M-3で広島へ家族と脱出した。

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「戦艦大和の最期」を読み始めた

2020-06-16 13:09:20 | 日記・エッセイ・コラム

 普通どの様な本でも目次が存在する。 この本には目次が無い。 いや有るのだが、「本文」、「後書き」、それに著名な作家五人の「跋文」と記されているだけである。 本文は段落が無いが、小さい見出しは有る。 漢字とカタカナで記され、文語体である。 時間の経過と共に大和が最期を迎え、筆者が救助されるまでの記録である様だ。 しかも、実際に経験した事実のみが記録されているようである。 二ページ読んだところで、「跋文」が気になり始めた。 吉川英治の跋文を読んで、この本が書かれた経緯を知り、感動している。 作者は、大和の沈没から辛うじて生き残ったのだ。 復員して親元に帰ったら、その親の疎開先が、吉川英治と同じ所、吉野で、疎開者仲間であったそうである。 親子で吉川英治宅を訪ねた時、吉川英治が、生死の境を通って来た記録を残しておくと良いと、アドバイスしたそうである。 その事がきっかけで、記録に留めて置いたものだそうである。 吉川英治は、広島とは縁が深い。 広島は嘗て浅野藩であった。 その浅野藩の家老職の一人に「古川家」がある。 その古川家の一流れの子息に、私の同級生がいる。 小学校六年間同じ組であった。 その古川家は、戦後原爆孤児の為の支援を行っていた。 特に東京に寮を作り、就職時の保証人になって支援していたが、その孤児の中には成績の良い子供がおり大学に進学させてやりたいと思っていたが、資金的に難しかったそうだ。 その時吉川英治が、毎年四人の子供の支援を申し出たのだ。 常時十六人の学資を支援してくれたのだ。 此の事は、自分が戦争加担者であるとの認識からだそうであった。 戦後も著述活動を自粛して、そうした福祉活動をしていたそうである。 昭和二十五年、新平家物語で復活するまでの間、自粛は続いたそうだ。 原爆孤児に対する支援は、昭和四十一年まで続いたそうである。 この事実は、あまり世間には知られていない。 同級生の古川君の父親から聴いて、私も初めて知った。 昭和四十一年の事だった。 

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