島原城
キリシタン大名の有馬晴信所領でキリスト教信仰も盛んでしたが、有馬氏の転封で、
次の松倉勝家がこの島原城を新築の為に領民から年貢を過重に取り立てや厳しいキリシタン弾圧を行っていました。
肥後天草でも同じような圧政とキリシタン弾圧があり、当時16歳の天草四郎を戴いた島原の乱が起きました。
この乱の終結後、島原城主の松倉勝家は圧政の責任を問われ切腹でなく斬首となり、松倉家は断絶となったそうです。
この城は籠城なので、橋を崩せば、本の丸だけでも十分持ちこたえられる作りになっているそうです。
城の中に駐車して、この1本の通路を通って傍の武家屋敷を見に行きました。
島原城の傍の水路を流れる清流武家屋敷通りを見学
島原市は雲仙だけからの伏流水で島市内50箇所以上で湧き出ています。古くから「水の都」と言われています。
島原城の築城のとき、外郭の西に接して扶持取70石以下の武士たちの住宅団地が建設されました。
戦いのときには鉄砲を主力とする徒士(歩兵)部隊の住居で、鉄砲町とも呼ばれています。
街路の中央の水路は豊かな湧水を引いたもので、生活用水として大切に守られてきました。
一屋敷は三畝(90坪・約300平方メートル)、住居は25坪ほどの藁葺き、
屋敷内には藩命で梅・柿・蜜柑類・枇杷などの果樹を植えさせ、四季の果物は自給できるようになっていました。
この壁の上に何故か石が積んであって面白いと思いました。
保存されている下の丁の武家屋敷は長さ406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みです。
島原からの熊本への近道は30分の乗船で行けるフェリーでした。
あっという間に熊本の街中を歩いていました。紅蘭亭で秋の円卓料理を食べました。
そして憧れの熊本城です。
肥後半国の領主の加藤清正によって1601年~1607に築城されたそうです。
城郭は周囲9Km広さ約98万平方メートルで、
その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えです。
武者返し」と呼ばれる美しい曲線を描く石垣は有名です。
この城は以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となりました。
1877年の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しました。
この時原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。今の天守閣は1960年に再建されたものです。
熊本城の石積みは大きくて、素敵でした。
2011年辛兎、私は生まれて60年の干支が廻りました。
息子は両方のお祖父ちゃんが60歳の時に生まれて同じ干支です。
そして偶然にも、その息子の子供が今年、私と同じ辛卯年に生まれました。
若い時はどうやって生きたらいいのかと思ったりしていたのに、あっという間に60歳になり驚いています。