☆心に留まった光景☆

ささやかな感動した景色、出来事を載せてゆきたいです。

久々の鎌倉 安国論寺の白のサザンカ

2018年11月22日 | Weblog

20分ぐらい電動自転車で貯水池までサイクリングした時のひかれた景色の写真です。
のんびり釣りをしている人の横で一緒に池をのんびり見ているサギです(右の端にいます)。
家のあちこちの軒に干している大根。細長い白首大根。
 

歳のせいか風邪が治らず、今日少し元気になったので久々に鎌倉に行きました。
電車に乗ってから本を片手にどこに行くかと相談です。
風邪気味なので駅から遠くない安国論時の白のサザンカを見に行く事にしました。
道中目に入ったものです。黄色の実はツルウメモドキと書いてありました。
  

安養院は春のツツジの木の下につわぶきが黄色の花をたくさん咲かせていました。
     

安国論寺は白のサザンカがあちこちで咲いていましたが、ちょっと遅かったです。
白のサザンカは珍しいですね。
  

奥で階段を登って富士見台に出ると海が見えました。
落ち葉が一杯積もっていてさらに湿っていたので、下りは滑りそうで大変でした。
イチョウは綺麗でしたが、紅葉はこれからですね。
  

ピッツェリアジージー 鎌倉でピザを食べました。
ランチはピザの値段で、コーヒーとデザートが付きます。
大きいピザで切った後、内側から丸めて食べます。
いつ来ても昼時は満員でにぎわっています。
そのそばに「しかけ絵本メッゲンドルファー」という店があります。
孫3人に絵本を買いました。
昔鎌倉で見つけて気に入っていたパラパラブック絵本に出会いました。
「むしくいさま」というパラパラとめくって見る絵本です。
パラパラとめくると虫食い部分が広がって行くのです。楽しい絵本です。

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スペイン広場・トレビの泉・テルミ駅周辺 ⑪

2018年11月15日 | Weblog

ローマ一番の観光地スペイン広場で、人の多さに驚きました。
この名前がついたのは、広場の一角にバチカン市国スペイン大使館」があるからです。赤い旗はスペインの旗です。
丸い中の絵がバチカン市国の国旗の中の絵です。
イタリアスペイン大使館」はテベレ川に近い瀟洒な宮殿内にあるそうです。
よって日本も「バチカン市国の日本大使館」イタリアの日本大使館」がそれぞれ別の所にあるそうです。
バチカン市国は世界で最も小さな国なので各国のバチカン市国の大使館はバチカンの外にあることが多いそうです。
  
広場の横にあるこの茶色の建物もバチカン市国の建物で,
建った時の法王の紋章のミツバチがあちこちに付いて、バチカンの黄色の旗も出ていました。

下の写真は映画ローマの休日
アン王女がスペイン階段でジェラードを食べる有名な場所です。
今は階段のところは飲食禁止で、ジェラートはもちろんダメです。
階段の上に見えるのは、16世紀に完成したトリニタディモンティ教会。
一番上まで135段の階段が続いています。集合時間があるので真ん中まで登って帰りました。
 
階段前には舟の噴水(バルカッチャの噴水)という噴水があります。素敵な噴水です。

次に行ったトレビの泉
もたくさんの人で、座る所を探すのが大変でした。
  
後ろ向きにコインを泉へ投げ入れると願いが叶うという言い伝えがあります。
コイン1枚だと再びローマに来ることができます。
コイン2枚では大切な人と永遠に一緒にいる事ができ、3枚になると恋人や夫・妻と別れる事が出来るそうです。


バチカン市国見学の後にローマの中央駅に当たるテルミニ駅近くの三越に行きその周辺の散策しました
テルミニ駅の名称は駅近くに古代ローマ帝国の大きなディオクレティアヌス浴場の遺跡があり、古代ローマの公衆浴場を意味するテルメからついたようです。
映画「テルマエ・ロマエを」思い出しました。
今のイタリア人はお風呂に浸からずにシャワーだけだそうです。
このローマ遺跡は、今は浴場でなくて教会になっています。
浴場遺跡の外側がそのままで、中に入ると立派な教会サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。
ローマの教会はどこも立派だなと思います。1月にブラタモリに写っていました。
教会の写真の手前の太い柱はブラタモリで、ローマ遺跡の柱だそうです。
入口 

この教会のそばにローマの中央駅のテルミ駅がありました。
帰りホテルの通路が喫茶店になっている所で、この浴場遺跡を見ながらイタリアのコーヒーで休憩しました。
3人に付いたクッキーがそれぞれ違う種類のクッキーでした。
   
また三越に戻って地下にあるレプリカの「真実の口」に手を入れてみました。
映画の「ローマの休日」の
シーンみたいに。
嘘つきが手を入れると食べられてしまうという伝説があるそうです。
これは古代ローマのマンホールの蓋だったそうです。洒落てますね。
    
一度食事をしながらカンツオーネを聞きました。
声量があってとても上手な歌い手で、生の歌とカンツオーネは良いなと思いました。
珍しく夫が「チャオ・チャオ・バンビーノ」という曲をリクエストすると、傍に来て我々の為に歌ってくれました。
イタリアの旅は楽しくあっという間に過ぎました。
体調が良く、雨もほとんど降られず、ダイジェストにイタリアの主な所をスムーズにに行けました。

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バチカン市国 ⑩

2018年11月12日 | Weblog

バチカン市国はイタリアのローマの中にある都市国家で、ローマ カトリック教会の総本山です。
ローマ教皇が住む国であり、名高い貴重な美術品と建築物の宝庫とされています。

裏門かな、ここから入るのに長蛇の列がありましたが、我々ツアー客はすぐ入れました。
門の上の彫刻はラファエロとミケランジェロの彫刻です。
入口に入ると長いエスカレータがあり楽しました。現代的ですね。
でも隣の階段は重螺旋階段で上りと下りが一つの階段にみえる不思議な階段だったようで,階段を見なかった事が残念です。
   
上に出ると公園がありました。
公園にはシスティーナ礼拝堂の正面壁画のミケランジェロ作「最後の審判」等の絵達看板等いくつがあります。
ガイドさん達はこの看板達の絵の解説をしてくれました。礼拝堂では説明できず、写真も撮れない為です 。
  看板 

快晴の中、洒落た入り口から美術館に入ります。
すごく豪華絢爛たる中身です。天井が本当にきれいでした。。
  

両側に色々な彫刻が並んでいます。最初は絨毯タペストリーが両側に並んでいました。
   
 絨毯のタペストリー「キリストの復活」
ガイドさんがどの方向から見てもイエス・キリストがこちらを見ているように見えますと説明してくれました。
始めはキリストの目が左側に居る我々の方を見てます。そして通り過ぎた右側にいる我々を見ています。
部屋のどこから見てもイエスの目が追って来ます。
ミラノの美術館でも同じ描き方をしている絵を見ました。

絨毯のタペストリーの次は、壁に16世紀に作られた40枚の地図のフレスコ画が描かれています。
天井も絨毯のタペストリーの間と同じように豪華で立派です。
   

そしてシスティーナ礼拝堂に入りました。やはり写真撮影も説明は無しです。
正面の壁画「最後の審判」はミケランジェロ晩年の大作、
天井の「創世記」はミケランジェロ30代の頃の作品、どちらもすごて良かったです。
しかし広い礼拝堂の中はいっぱいの観光客で、ゆっくり見ましたがにぎやかくガタガタして。
そのままサンピエトロ大聖堂へ向かいました。 

サンピエトロ大聖堂が、またすごい大聖堂でした。
聖ペテロ殉教の地に4世紀にコンスタンティヌス帝が建立し、
16世紀初めに大幅な改築が行われ、改築時の設計はブラマンテからラファエロ、ミケランジェロへ引き継がれ17世紀初めにようやく完成しました。

 
ミケランジェロ作「ピエタ」と、ベルニーニ作の大天蓋「バルダッキーノ」です。
まず入口右側礼拝堂にあるピエタ像に目を奪われました。
ミケランジェロが1499年に24歳の時に注目を浴びた作品だそうです。
ピエタとは十字架から降ろされたキリストとそれを腕に抱く聖母マリアの宗教画や彫刻の事だそうです。

もう一つ29mもある大きな大天蓋バルダッキーノです。あまりの大きな物が鎮座していてこれは何だろうと思いました。
この上の場所は唯一教皇だけがミサを行うことの出来る神聖な祭壇です。
バルダッキーノという名前はバグダッドのことで、バグダッドからもたらされた高級な布地を巻き上げて天蓋を作ったところから生まれた言葉だそうです。
ねじれねじれて舞い上がる炎のような円柱の下から見た絵は真上のクーポラから降り注ぐ外光を通して鳥が見えます。

       
バロック様式のサン・ピエトロ大聖堂はキリスト教の建築物としては世界最大の教会で、そのすごさと立派さに敬服します。

   
外から見た景色です。
明日は特別の催しがあるようで、その為に顔が大きく張られ、広場は椅子で埋め尽くされています。
サン・ピエトロ大聖堂は総面積15106平方メート、高さ45.8m、収容人数6万人だそうです。
教会から出るときにスイスの傭兵がいました。洒落た制服ですね。
   

丸い城はサンタンジェロ城はテヴェレ川右岸にあり14世紀頃からローマ教皇によって要塞となっていました。
バチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは秘密の通路で繋がっているといわれていてローマー教皇の避難場所と書かれていました。

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コロッセオ ⑨

2018年11月10日 | Weblog

ポンペイの後はバスで250キロ乗ってローマに夜着きました。
次の日バスでコロセウムへ。朝早くバスから見ると太陽でコロセウムが輝いていました。
コンスタンティヌスの凱旋門とお隣のコロッセオが並んで写ってます。
  
コンスタンティヌスの凱旋門312年に、西ローマの副帝で後のローマ帝国皇帝となったコンスタンティヌスが、
テヴェレ川にかかる「ミルウィウス橋」の戦いで正帝マクセンティウスに勝利しえた事を讃えて建造された凱旋門だそうです。
テヴェレ川はローマの北に流れて、そこにかかる最も重要な橋の一つです。
大きなコロッセオの隣で小さく見えますが、ローマ最大の大きさで高さ21m、幅25.7m、奥行き約7.4mもある凱旋門です。

1960年のローマオリンピックでのマラソン競技のゴール 地点で、アベベ世界最高記録の2時間15分16秒2で優勝しました。
全く無名で裸足のアベベがゴールのコンスタンティヌス凱旋門に入ってきたとき各国の報道関係者も騒然となったそうです。大感動でしたね。
  

 ローマの中心部に建つ「コロッセオ」は巨大な物という意味です。
長径188m、短径156mの楕円形で、高さは48mの四階建てで約5万人を収容できたそうです。
これだけ巨大な建造物を約2000年前の人たちが作って、2000年間倒壊せずにこの場所に立ち続けている事に驚きます。
 
外より中に入って見た瞬間に、このコロッセオの大きさに驚きます。
 

現在のコロッセオは床部分が失われており、地下構造を見ることができます。
ここには猛獣の檻や機材置き場などがあり,複雑な舞台装置や人力のエレベーターもあったと言われています。
コロッセオで催されたのは猛獣同士、剣闘士同士、猛獣と剣闘士での殺し合いです。
映画「ベン・ハー」を思いだします。「ベン・ハー」なかの剣闘士は奴隷や戦争で捕虜となった人達でした。
1階には貴族階級、2階には騎士、3階には一般市民、最上階には市民権を持たない奴隷や女性の席です。
白の大理席は特別席です。
   入口の回廊 

レンガの積み方に目が行きました。
   

建物のあちこちに一杯穴が空いています。なんの為に?
インターネットで調べると構造的な補強材としていらられていた鉄材を取り出したそうです。
  
コロッセオの上から撮った景色です。
ここは古代ローマ帝国の中心だったのが「フェノ・ロマーノ」です。
写真で見る範囲全体が遺跡のように見えます。
白い凱旋門がティトゥスの凱旋門で、西暦82年にエルサレム攻囲戦の戦勝を祝して建てらたそうです。
美しい形なので16世紀以降の凱旋門はこれをモデルにしていて有名なのがパリのエトワールの凱旋門だそうです。
ここにもう一度来ることがあるなら、ゆっくり散策したなと思いました。

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ポンペイ遺跡 ⑧

2018年11月09日 | Weblog

バスでポンペイに着きました。
ポンペイはカメオ細工が有名で、まずはその細工を見学しました。
  
つい1個買ってしまいました。

西暦79年の夏ヴェスヴィオ火山(高さ1277m)の大噴火がおきました。
当時は北風が吹いていてナポリ湾に面したヴェスヴィオ火山の南東にあたるポンペイと西のヘレクラネウム一瞬のうちに埋もれてしまいました。
ポンペイの位置を示す地図をインターネットより拝借しました。黒い所が火山の被害にあった場所のようです。
この地図でカプリ島とソレントの位置も分かります。
 
右写真の後ろにみえるのがヴェスヴィオ火山です。ポンペイからは近くに見えます。
最も新しい噴火は1944年で、サン・セバスティアーノ村を埋没させました。それ以来噴火はありません。

ポンペイの遺跡を歩きました。
1748年に本格的な発掘がスタートするまで1700年近く地中深くに眠ることとなった遺跡です。
道路の両側に庶民の家が並んでいます。丸い白い台のあるのが居酒屋さん。
右写真は奥の穴でパンを焼くようでパン屋さんです。
  

車道(馬車道)の脇には一段高くなった歩道があります。
道路沿いに水飲み場もあります。

   

フォロ浴場跡
お風呂には可愛い飾りの彫り物がありました。
  

歩いているとパッと前が広がりました。
ポンペイの中核的な公共広場です。
バシリカ、アポロン神殿、食品市場、聖堂などの公共建築が並んでいるそうです。
バシリカとは裁判所や商品取引が行われた場所です。

  


食料市場の跡に石膏像が1体展示されていました。
     パソコンから拝借した写真
発掘された当時、火山灰の中は遺体部分だけが腐って無くなり空洞になっていました。
火山灰に埋もれた遺体は長い年月の間に朽ちて頭がい骨と歯を残して微生物により分解され空洞の穴を残しました。
考古学者たちはここに石膏を流し入れて亡くなった時の姿を再現しています。頭がい骨と歯は残っていて実際のものだそうです。
石膏を流し込むことによってとられた犠牲者の石膏像は現在までに1000体以上あるそうです。
母親が子供を覆い隠し、襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子や恐怖から逃れようともがく姿があるそうです。
私が子供の時のポンペイの遺跡のイメージは、絵画と亡くなった時の姿と思っていたので、それらは見れず終わりました。
石膏や絵画は違う場所で展示していたのかな?
1748年に再発見され、建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにするための発掘作業が行われました。
しかしそれまで街を埋めていた灰が除去されて4世紀、全体の4分の3近くが風雨にさらされた状態になりました。
劣化が進むポンペイ遺跡の修復1億500万ユーロ(約149億円)をかけてするプロジェクトが発足しています。
発掘によって色々な真実が分かりましたが、これを上手く残す事も必要な事と思いました。

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ソレントとアマルフィ海岸 ⑦

2018年11月07日 | Weblog

イタリアの代表的なカンツオーネに「フニクリ・フニクラ」・「オー・ソレ・ミオ」・「サンタルチア」・「帰れソレントへ」があります。
私は歌詞がでてくるぐらいどの曲も知っているます。
しかし私の子供世代はあまり知らないようです。
「フニクリ・フニクラ」の行こう 行こう 火の山へ♪ (ベスビオ火山への登山電車の歌)」と私の世代は歌っていました。
しかし子供や孫は鬼のパンツは いいパンツ つよいぞ つよいぞ♪と楽しく歌っています。
この調子の良い曲の音楽だけを使って楽しい歌詞をつけて孫は踊ってます。 

カプリ島の帰りは、歌「帰れソレントへ」のソレントの街へ船が着きました。
ソレントの目の前にはナポリ湾が広がり、その遠くにはヴェスヴィオ山が見えます。
船から降りると火山から出たと思われる岩がゴロゴロあり、イタリアは日本と同じ火山地帯です。
    
ソレントの街は岩場の上にあり、すぐそばにレモンやオリーブの木が茂る牧歌的な自然もあります。
良い避暑地で観光客でにぎわっていました。

ここでお昼ご飯。
ミラノに着いてから毎回大きなお皿一杯に紫キャベツとレタスの葉物がでます。
最初はバルサミコ酢とオリーブ油をかけて美味しいと思って食べました。
ツアー客用の料理だからかな?毎回の昼食と夕食にほぼ同じ野菜一杯が付いてくるので飽きてきます。
ソレントのお昼にリゾットも出ました。
パスタと同じで少し芯がある方が美味しいそうです。
私は芯があっても美味しかったですが夫は珍しくリゾットを残していました。
   

昼食後はソレントから40キロのアマルフィ海岸へ。
海岸の西端のポジターノでバスを止めて写真を撮りました。
アマルフィ海岸の高級リゾート地です。カラフルな建物が並んでいます。
  
 
バス傍の店で、トマトの粉や調味料を10袋買うと1袋付くのて、軽いので買いました。
トマトの粉を宣伝していたので9個買いました。スパゲッティかけたり美味しいです。
それよりもっと良かったのが色々な薬味の入っている調味料2個でした。
どんなサラダにかけるだけでも大人には美味しい味になります。こちらの方をたくさん買えば良かったです。
   
イタリアは日本と似て海に囲まれているので、海の入った絶景が続きます。

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カプリ島 青の洞窟・ザッケローニ元監督? ⑥

2018年11月04日 | Weblog

カプリ島マリーナグランデに着いて、荷物を預けて直ぐ青の洞窟に向かう小さな船に乗りました。
   
小さな船一杯に乗ってひっくり返ったらどうなるかと思いましたが波は静かで海の色は群青色の素敵な色でした。

  
港から崖をぐるっと回ると一杯の小舟が観光客を洞窟に案内するために待っていました。
1艘に3人~4人乗りの小舟で、足の悪い私はうまく乗れるか大心配でしたが、落ちる人もいるとか。
水の潮位が高いので寝そべって洞窟の入り口をくぐります。
入り口が非常に狭いため、晴れた波の低い日にしか入ることができないそうです。我々はラッキーでした。

 
最初真っ暗でビックリでしたが洞窟の入口の方を見ると素晴らしい青色です。
我々が最後の客なのでチップを2倍払って洞窟を2周してもらいました。(ガイドさんのアドバイス)
フニクラフニクリとサンタルチアの2曲も歌ってくれました。
洞窟を出るときも寝そべって出ました。
また小舟から少し大きい船に乗り換えて港へ。
我々が最後の客の為、紐で今乗った小舟を後ろに繋いで一緒に港まで戻りました。
ピンクの上着を着た女性がカプリ島での案内人で、カプリ島に住んでいるそうです。
  
カプリ島の青の洞窟までは一生行く事はない場所と思っていたけど実現しました。
偶然申し込んだツアーの日程に入っていました。天候で入れ無い事も多いらしいので、全部良かったです。
白神山地の青池に続いて青の洞窟と、美しい青色に縁がありますね。

青の洞窟から戻ってカプリ島のお土産を買って、
小さなバスに乗って細い山道を登り山の天辺にあるホテルへ行きます。
   
細い上り坂の道で小さいバス同士がすれ違うのも大変です。
その為の面白い三輪自動車がたくさん走っていました。
昔日本で走っていた三輪自動車より小さいサイズで、男の人が一人乗って運転する小さいトラックです。

    

夕方ホテルからカプリ島唯一の港マリーナグランデ見るとほんわりした夜景がきれいでした。
 
次の日の朝も曇りの為に、山の上からの良い景色が撮れなく残念です。
ホテルから港マリーナグランデを見ていると3輪自動車同士がすれ違ったので慌てて撮りました。オレンジ色の三輪自動車もありました。

よく似ているので遠目から娘が撮った写真です。ザッケローニ元監督さんそっくりですね。
イタリア人なのでカプリ島にバカンスに来ているのかな?
ホテルの人に何人か聞いてみると、本人だと言ってくれましたが。どうかな?

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ナポリ ⑤

2018年11月04日 | Weblog

歩いてのフィレンツェ市内観光の後、特急電車に乗りローマ駅に止まらずナポリ直行で着きました。
ナポリはギリシャ語で新しい街(ネアポリス)という意味でギリシャ人の植民地としてスタートしたそうです。
13世紀にはアンジュー家に、16世紀にはスペイン総督に、18世紀にフランスのブルボン王家の統治を受けました。
5㎞四方ののナポリの街には其々の時代の建物や美術品が残っています。

ナポリ駅前から港までバスに乗り、車窓からナポリの街を見ました。
バスに乗った途端、下町風の洗濯物が干してある建物の連続に驚きました。
        
ここはナポリの世界遺産に指定された歴史地区でもあります。
ヌオーヴォ城は13世紀に建られたアンジュー家の居城です。
ウンベルト1世のガッレリアミラノのガレリアを模してコレラの大流行の後に1890年に造られました。
旧市街地区は活気にあふれる下町の景色の中に、名だたる大聖堂や教会が点在している面白い街のようです。
    
船着き場の建物後ろの建物も古い物です。
ナポリの街は船室から撮った為、世界三大美港の一つとされるナポリの街は少しボケてます。
山の頂上に建つのはサンテルモ城のようです。

  
この後船に乗ってカプリ島へ行きました。

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