十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

シャクシャインの戦い

2019-07-17 05:00:00 | 投稿

 「シャクシャインの戦い」は、1669年に起こった北海道史上で一番大きい戦いである。私はその戦いを50年前、講演で知った。その講師が、「北海道の革新性は、シャクシャインの戦いにより生まれた」と言っていた。

確かに北海道は農業国で、どちらかと言うと補助金などもあり保守性が強い所であるが、選挙だけは他の所とくらべて何故か保革伯仲しているのも、それに原因があるかもしれない。

「十勝の活性化を考える会」会員

 

注)シャクシャインの戦い

シャクシャインの戦いは、1669年6月にシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起である。

 [松前藩による交易独占]

アイヌ民族は、松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出し和人製品である鉄製品・漆器・米・木綿などを北方産物である獣皮・鮭・鷹羽・昆布などと交易していた。

しかし17世紀以降、幕藩体制が成立すると幕府により対アイヌ交易権は、松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなった。アイヌ民族にとっては、対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し、和人との自由な交易が阻害されることとなった。

幕府権力を背景にした松前藩では、17世紀後半には対アイヌ交易は、松前城下などでの交易から商場知行制に基づく交易体制へと移行した。これは松前藩が蝦夷地各地に知行主(松前藩主や藩主一族及び上級藩士など)と、彼らの知行地である商場を設定して知行主には直接商場に出向き、そこに居住するアイヌ民族との交易権を与える交易体制であった。

また和人からアイヌ民族に交易を一方的に強要する「押買」の横行や、大名の鷹狩用の鷹を捕獲する鷹待や砂金掘りの山師が、蝦夷地内陸部を切り開く行為、松前藩船の大網による鮭の大量捕獲がアイヌ民族の生業基盤を脅かし、和人への不満が大きくなった。

 [発端]

不利なレートを嫌い交易を拒否するアイヌに対し、和人が無理やり交易を強要する押買が横行するなど、アイヌには和人への不満が広がっていた。 こうして事態は、惣大将や地域集団同士の争いから多数のアイヌ民族集団による対松前藩蜂起へと移行した。

16696月21日、シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は、天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。決起した2千の軍勢は、鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃した。突然の蜂起に和人は対応できず、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された。

シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、7月末にはクンヌイに到達して松前軍と戦闘を行った。戦闘は8月上旬頃まで続いたがシャクシャイン軍の武器が弓矢主体であったのに対し、松前軍は鉄砲を主体としていたことや、内浦湾一帯のアイヌ民族集団と分断され協力が得られなかったことからシャクシャイン軍に不利となった。

 [シャクシャイン軍の敗北]

シブチャリに退いたシャクシャインは、徹底抗戦の構えであったため、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前軍は、謀略をめぐらしシャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは、結局この和睦に応じ11月16日、ピポク(現新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。この他アツマ(現勇払郡厚真町)やサル(現沙流郡)に和睦のために訪れた首長も同様に謀殺あるいは捕縛された。翌17日には、シャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。

[影響]

このシャクシャインの戦いを経て、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。その後、松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった地域集団をも含めたアイヌ民族に対し、七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた(『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』)。これにより、松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化された。その一方で、アイヌにとって不利になる一方だった米と鮭の交換レートをいくぶん緩和するなど、融和策も行われた。

(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 

十勝の活性化を考える会」会員募集