十勝の活性化を考える会

     
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アイヌと和人

2022-11-08 05:00:00 | 投稿

11月3日の文化の日、音更町郷土史研究会の学習発表会が、地元のイベン会場で開かれた。この発表会でも講師は、“アイヌと和人”のことを話していたが、私はアイヌについて、次のように考えている。

日本列島でも稲作に不向きな北海道と沖縄には、弥生文化がほとんど浸透せず、北海道には縄文時代に続く続縄文時代が長く残ったのである。続縄文時代とは、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀にかけて、擦文文化が現れるまでの時代で、遺伝子的にも縄文人のDNAが他の地域に較べて色濃く残った。アイヌと琉球人の顔が似ているのは、DNAが似ているからである。

北海道でアイヌと呼ばれる人々は、そうした縄文人系の遺伝子をより濃く引き継いだ人々の末裔である。つまり、アイヌと呼ばれている人々と和人と呼ばれる人々も、生物学的意味では同じモンゴロイド人種で、ルーツは同じで日本人であることに変わらないと言うことである。

即ち、縄文系の狩猟採集の生活や文化を最後まで守った人々がアイヌである。こうした事実を正しく理解することが、アイヌと呼ばれる人々の差別解消の第一歩になるのではと思っている。

この話に関連して、「日本人はどこから来たのか?」ということについて、日本社会学者 沖浦和光氏が、以下のとおり分かりやすく書いている。

『日本列島が今のように海に囲まれた島国になったのは、約2万年前の氷河期の終焉期です。気温が上昇し、海水面が約150m上昇したため、大陸から切り離されました。列島となった日本には、旧石器時代後期から東南アジアから北上してきた古モンゴロイド(=南方系モンゴロイド)の先住民が住んでいました。
 気候の温暖化に影響され生まれた「縄文文化」が、この日本列島で発展しますが、その後、中国大陸の江南地方に住んでいた倭人系が渡来してきます。倭人たちは稲作文化と金属器文化をもち、朝鮮半島を経由して九州へやってきました。

その後も何波にも分かれて朝鮮半島からやってきた倭人系の渡来集団は、その数を増やすにつれて九州・四国から西日本まで広がり、先住民と融合しながら古代文化の基礎となる「弥生文化」、さらに古墳文化の発展の推進力となります。

次に、東北アジアに住む騎馬民族系の集団が朝鮮半島北部に入ってきます。「高句麗」を建国し、さらに半島を南下して、「百済」「新羅」をおびやかします。北方系文化の影響を受けた朝鮮半島からの渡来人は、早くから九州北部にやってきます。そして縄文からの先住民や弥生時代の渡来民を制圧して融合しながら勢力を広げ、やがて近畿地方まで進出してヤマト王朝を建国しました。

しかし、北関東以北の地方と南西諸島を中心とした縄文人以来の伝統的民族は、新しい渡来集団の遺伝子を受けることが少なく、独自性を維持してきました。それがアイヌ民族と南西諸島の先住民です。(後略)』

上記の文章でも分かるとおり、北関東以北の人々が“アイヌ”であり、南西諸島の人々が“琉球人”なのである。このようなことが意外と知られていないことが、アイヌの差別につながっていると思っている。

エミシ(アイヌ)は次第に影響力を増大させていく大和朝廷により征服され、一部は中世のアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられている。エミシは学者によってアイヌとアイヌ系のふたつに分かれるが、いずれにせよアイヌの血が流れているということになる。なお、初めてアイヌ系日本人と言ったのは、『分類アイヌ語辞典』で有名な、北海道大学教授の知里真志保氏である。

アイヌには、北海道アイヌ・東北アイヌ・樺太アイヌ・千島アイヌなどがいる。また、アイヌと混血したとみられるツングース族やイヌイット族がいる。なお、ツングース族には、北方ツングース人と南方ツングース人がいて混血度合いによって、それぞれ違いがある。

私の母方の祖父母は北東北出身なので私はアイヌ系で、北海道人の多くは東北にご先祖を持つ人が多いので、アイヌ系の人が多いと思う。アイヌという自民族の呼称として使われだしたのは、本州の人々とアイヌとの交易が増加した18世紀前後といわれる。それ以前は、「アイノ」とか「カイノ」など色々とあったらしい。「アイヌ」という名称が日本の文献に最初に現れたのは、児玉作左衛門によると1739年に書かれた『北海随筆』中の「アイノとは長者のことなり」という部分だそうである。

一方、「和人」という言葉が文献資料に載ったのは江戸時代で、幕府がアイヌに対する自分たちの自称として用いていたという。アイヌに詳しい学芸員によれば、アイヌ民族には文字を持たなかったので、当時、北海道でどのように呼ばれていたのか、又、自分たちのことをどのように呼んでいたのかは分からないそうである。 

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