VOL2 わ・た・し流

おとぼけな私ですが 好きな本のことや 日常のなにげない事等 また 日々感じたことも書いていきます。

現代と「方丈記」⑦

2013-04-12 17:54:16 | 方丈記

飢饉の描写は 凄惨をきわめたが

 

 そんな中で、心をゆさぶられるような出来事もあったという

 

いわく

 

 「かたときもはなれないほど仲の良い夫婦などは、愛情の強いほうが

 

必ず先に死んだ。なぜなら、自分の事をさておいても、

 

 相手の事を第一にいたわるので、まれに手に入った食べ物も

 

自分より 相手にあげてしまうからなのだ。

 

 そんなわけで、親子なら決まって親が先に死んだ。

 

また、母親が死んでしまったのを知らずに、赤ん坊が

 

 乳房を吸いながら寝ている光景などもあった」

 

 

仏教でいう 大の三災とは

 

 飢饉と戦争と疫病だという 

この3つで亡くなる人の数は 何千万人にものぼるからだろう

 

 

 ちなみに この飢饉で亡くなった人の数を

 

地域を限って調べたところ 4、5月で4万二千三百余体あったとある

 

 さらに 郊外や諸国、また 4、5月以外を考えれば

 

数えきれないほどなのは 言うまでもない

 

 とある。

 

「昔、(50年ほど前)このような飢饉があったと聞いたことがあるが

 

 目のまえで見る光景は 想像を絶する惨状だった」

 

私も こんな事は 歴史の教科書か 父の戦争体験でしか知らない

 

 でも 紛争地帯では 人災として こういう光景がある

 

最近 食べられる事に深く感謝する日々である

 

 


現代と「方丈記」⑥

2013-04-11 09:51:33 | 方丈記

現在、もっとも心配しているのは 「食と水」


 松原さんも 世見でたびたびとりあげているが

これだけ地球が砂漠化し、異常気象の時期にも入り、

 また、大国の環境汚染が深刻になると

次にくるのは、安全な水と食料の問題だ、と


 昔も 環境汚染はなかったものの

飢饉は 定期的に人々を苦しめたことが歴史にあきらかである


 長明が方丈記を書いたのは、

出来事からほぼ25年以上もたってからなので

 養和の飢饉の時期については 時期があやふやだと述べているが

1181年~1182年ころらしい。



「ある年は春と夏に雨が降らず、水不足に見舞われた。

また、ある年は秋と冬に台風・洪水に見舞われるなど、次々と

 天災が続いて、五穀がことごとく実らなかった。

いくら働いてもかいがなかったが、それでも春に田をおこし、

 夏に苗を植えた。しかし、秋の取り入れ、冬の納庫という

喜びはなかったのである。」


 飢えに苦しむ人々は 他国に逃げたり、山の中に移りすんで

木の実や草の根で飢えをしのぐものもいた。都では 加持祈祷が

 行われたが 一向にききめなく、ついに

貴族たちは 家の宝を食糧と交換し始めたが、飢饉のさなか

 宝に興味を示すものなど少なく、また いたとしても

安く値踏みして 食物を高く売りつけた。

 路上生活者が増え、飢えに苦しむ声が耳について離れなくなった。


とある。


 そして、次の年は 皆 期待していたが 今度は 疫病がはやってしまった。


そのさまを、長明は

 「小水の魚」にたとえた。


「水が無くなった魚が呼吸困難にあえぐ様」


いわく 「飢えのあまり 正気を無くした人々が

 歩く力はまだ残っているのかとみるうちに、

突然ばったり倒れて息絶えてしまう。

 土塀の外側や道の端に、餓死者の死体が無数に

放置されたままにされたので、死臭が京の町に充満した。

 また、死体が腐乱して形が崩れていく情景など

むごたらしくて目をそむける情景がたくさんあった。

 道より広い賀茂の河原などが、絶好の死体置き場にされた

のは 言うまでもない。


 ここには、馬や牛車が通るすきまもないほど無数の死体が

山積みされた。


 また、たくましく飢えにも強いはずの木こりや農夫も

あまりの飢饉に体力が尽きてしまったので、

 彼らが運ぶ薪なども不足した。

そこで、売るもののない人々は 自分の家を壊して

 市場で 薪として売った。


だけど、その代金でさえ、一日の命をつなぐ食費にも足りなかった

 という事だった。

中には、自分の家もないため、仏像や仏具などを盗んで

 薪として売っていたものなどもいた。


情けないことは、こんな濁りににごりきった世の中に

 生まれ合わせ、こんなあさましい人間のしわざを

みるはめになった事である。」



 京都であった2年続きの飢饉。

大震災時の スーパーから物がなくなった状況が

 2年続いたらどうだろうか。


私たちの潤った生活は あっさりどん底になりうる。


 そういった事を よく考えておく必要があると思う


現代と「方丈記」⑤

2013-04-10 17:21:51 | 方丈記

昨日 題を入力し忘れました


 今回 長明は 「福原への遷都」をとりあげている


突然の遷都にゆれる人々のさまをつづって


 「ひたすらに栄転、昇進を追い求め、上司に目をかけられようと

あくせくしている出世主義者たちは、一日でも早く新都に転居しようと

 躍起になった。いっぽう、変革に乗り遅れ、時流から取り残されて

希望を失った脱落者たちは、ぶつくさ不平をこぼしながらも旧都に

 留まった。


びっしりと軒を連ねていた京の町並みは、日に日に荒廃していった。

 家屋は解体され、筏に組んで淀川に浮かべ、福原まで運ばれた。

その宅地跡は、たちまち自給のための畑地に変わった。


人の心もまるで変わってしまった。

 雅な公家ふうを捨てて、実利優先の武家風に染まり、

馬や鞍ばかりを重んずる。

 
 貴族のように牛や車を用いる人はいなくなった。

しかも、新都から近い九州や四国の領地を誓願して、

 遠い東北の荘園を敬遠した」


福原への遷都は さながら バブル崩壊後の日本のようだ


 長明は当時26歳くらい

福原の都も見にいっているが 日がたつにつれ社会に動揺がひろがり

 人々がいらだつさまが書かれている。

そして、半年もしないうちに天皇は 京へ帰ってしまった。


 長明は 平家の失政を痛烈に批判している。


現代と「方丈記」➃

2013-04-09 10:41:00 | 方丈記

安元の大火から3年後

 治承4年(1180年)4月

辻風と表現しているが あきらかに「竜巻」が発生


 三、四町の範囲を吹きまくる間、辻風に襲われた家屋は、

建物の大小関係なく、すべて破壊されてしまった。

 そのまま上から押しつぶされて、ぺしゃんこにつぶれたものもあれば、

桁や柱しか残っていないものもある。

 辻風は 頑丈な門を吹き飛ばして、四、五町も離れたところに落とした。

また、垣根を吹き払って隣家との境界をなくし、さながら一軒家同然に

 してしまった。言うまでもなく屋内の家財道具は全部空に吹き上げられた。

屋根の檜皮や葺板のたぐいは、冬の木の葉が風に吹き散らされるように

 乱れ飛んだ。

塵を煙のように葺きたてたので、視界もきかず、ものすごい轟音が鳴り響いて

 人が何か言っても聞き取れない。あの地獄に吹くという風もこれほどではない

のでは?と思った。

 家が無くなったり壊れたりしただけでなく、これを片づけたり、直している間に

辻風に襲われて大けがをし、身体が不自由になってしまった人は

 数え切れないほどになった。

この風は 方角を変えて、多くの人の嘆きをうんだ。



  「辻風は常に吹くものなれど、かかることやある。ただごとにあらず。

さるべきもののさとしかなどぞ、疑い侍りし」


ーーー辻風はめずらしいものではないが、これほどの被害をだした

 ことはあるのだろうか? 異常なことである。

何か、神仏の警告なのだろうかと不審に思われた。---



 今おきている異常気象にもあてはまる描写だと思う。


最近、竜巻はとみに頻繁におこるようになり

 雷とともに脅威となっているように思える。


このあと、方丈記は、しばらく平家の社会を批判する記述となる。


 貴族社会が斜陽になり、台頭してきた武家に対して

貴族であった作者は 受け入れられないものがあったのだと思う。


 激動する社会情勢も今とだぶる。

価値観は大きく変わり、激動する時代を生きるのは

 昔も今も 変わらず並大抵の事ではないのだ


現代と「方丈記」③

2013-04-08 13:00:44 | 方丈記

長明は 23歳の時に「安元の大火」、26歳の時に「治承の辻風」、


 27歳の時に「養和の飢饉」31歳の時に「元暦の大地震」を体験。


安元3年(1177年)4月28日午後8時頃


 出火場所は舞人が泊っていた宿泊所かららしい


折からの強風にあおられて火災は拡大した。


 あるものは煙にむせび、気を失って倒れ伏した。

あるものは 炎に目がくらんで逃げ場を失い

 そのまま焼け死んだ。さらにあるものは 逃げられたが

家財道具を何一つ取り出すことができなかった。


 こうして、都の財宝は残らず灰になってしまった。

この大火で公卿の屋敷は16邸全焼、

 一般人の家は 数えきれないほど。総じて全都の3分の1を

焼きつくしたときいた。


 焼死者は数十人、牛馬など、家畜にいたっては見当もつかない


ーーー安元の大火の描写であるーーー


 「人のいとなみ、皆愚かなる中に、さしもあやふき京中の家を造るとて、

宝を費やし、心を悩ますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍る。」


 長明は、当時としては 超のつく名家の生まれだったのに

父親が早世してからは相続争いなどもあって

 結局30歳の時に 後を継ぐはずだった祖母の家を追い出されている。



武家であった平家の台頭と 名家に生まれた長明の人生は

 ちょうど重なり、表面からみたら 恵まれない人生となった。


そういった事が この「無常感」とつながるという見方もあるようだ。