思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

無題

2007年04月19日 | Weblog
妻は帰ってくるなり言う。
「お花にお水あげてくれた?」
「はい」
「お風呂はもう洗ってある?」
「はい」
「あら、お利口になったわねえ」

俺は猿回しの猿か。
妻は朝から出かけている、何とかのボランティアとはいえ要するに女同士集って自分達が好きなことをやっているに過ぎない。
亭主は妻のボランティア活動の犠牲者だ。

私は朝から皿も洗いましたし、昼ごはんも自分で作って食べました。
仕事を辞めた亭主はまさに粗大ゴミ扱いだ、と感じてしまう。
妻の方からすれば、この粗大ゴミの猿を何とかして自分の都合のいいように芸を仕込まなければと思っている節がある。

ある程度の芸を覚えないと猿は生きていけないことを自覚している。
妥協妥協、しかし妻は何一つ妥協していないような気もする。

自らの死を恐れず

2007年04月19日 | Weblog
ある人が
「私は完全にキレタッ!、あいつを殺して私も死ぬ!」
と決意して行動したら9割方成功するだろうと思う。
人間はそんなことはいとも簡単に遂行できる能力を持っている。

そんな標的になるような言動は止めておこうと考えるのは当然ともいえる。

アメリカの銃社会、兵器産業などで膨大な利益を得ている者は多い。
銃規制を主張して声高に叫ぶつもりなら「自らの死を恐れずに」臨まなければならない。
銃器を誰でも町で購入できる社会は、西部開拓の名残を引きずっているのかもしれないが現代の民主主義社会にはあまりにもそぐわない。

正当防衛・護身用という名目が、多くの殺戮者も自由に手にすることができるという結果を招いている。

日本では銃所持は規制されているが、欲しければ手にする手段はいくらでもあると思う。
この世に銃器が存在する限り。

(蛇足)
優れた銃器にはある種のロマンが漂う。
一瞬にして敵を倒すそのメカニズムと機能性は美しいと言えなくもない。
そんな小説や映画も多い。
自分は当事者ではないエンターテイメント。
そんな風に感じてはいけないの?

ガイア

2007年04月19日 | Weblog
最近「ガイア」という言葉を目にすることが多い。
エコロジーの立場から地球を大きな生態系として捕らえたときそれをガイアというようだ。
「生きている地球」とでも言うような意味になるのだろうか。

もしかしたらこのガイアは宇宙で唯一生命を生み出した偶然の惑星かもしれない。
宇宙には生命の存在する可能性のある惑星はたくさんあるのかもしれないが、実際は地球が唯一の星かもしれない、などと思ったりする。

人間の夢や想像力は多くのSF小説やSF映画を生み出したが、その想像を超える宇宙生命が、もしかしたら存在しているかもしれない。

宇宙そのものが巨大な生命体かも知れないではないか。

そのガイア(地球)の中で繰り返される争い事は本当に愚かだ。
特に殺戮では何も解決しない。
しかし悲しいかなこの生態系は広い目で見ると殺戮で維持されているとも言えるのだ。
他を殺すことによってしか生命を維持できないという宿命を背負っている。

ライオンの餌食になるシマウマの死は崇高な行為とか死とか見なされるが、人間同士の殺戮は不必要な殺戮で生命の摂理に反する行為で正当化されることはない。

この自然界で起こる「強者が弱者を殺す」行為は生命を維持していく上で必要な場合に限られている。
人間だけがその掟に反した殺し合いを行っている。
生命の倫理に外れた狂った指導者が引き起こす戦争、生命の倫理から逸脱した個人が時として理解できない殺戮を繰り返す。

自爆テロなんかは異常の最たるものだ。