普代防潮堤を神格化するな
田老は今次震災前、津波防災の国民的シンボルとしてその長大な防潮堤は神格化されてきた。今3.11以後、普代村太田名部漁港の防潮堤が再び神格化されようとしている。15.5mの高さを誇る堅固な構造物もさることながら、今回、海岸のものはともかく集落の人家はすべて無傷で残り、集落から津波犠牲者を一人も出さなかったからである。その分、復興の足音も高いように思われる。しかし、だからといって、マスコミの口車にのせられて15.5m高の防潮堤をそのまま神格化する事は許されない事である。あわせて防潮堤建設の指揮を執った当時の村長の信念を政治的に美化し神話化する事も謹まなければならない。
地面から10m弱の印象。海面からも15.5mあるようには見えなかったが…(2012.6.4)
今回別々に話を聞いた二人の方も、期せずして、冒頭に「震源地が南の方で太田名部にとって今回の津波は運がよかった」と同じ事を言った。つまり震源地が湾口直接の東方でなかったから津波の直撃は免れ被害も人家に及ばなかったという意味であったが… それより、現地住民としても防潮堤などが神格化される事を厳に警戒しているように聞こえた。
太田名部漁港における津波の分割
(エネルギーの3分割)
●津波エネルギーの 1/3 は漁港で大暴れ港湾建て屋や漁船を一掃した。
今回話を聞いた二人は地元の漁師の方と村の職員の方である。漁師は、当日、船を宮古の閉伊川に係留していて地震とともに沖に逃げて直接の被害を免れたという、「ひとから借りていた車は流された」と笑っている。(この文は調査というほどのものではないので自分の見聞が主で、以下、誰がこういったというようなことはない)
港湾内の漁船や卸売市場などの建て屋を壊滅させた津波のエネルギーはそこまで。それ以上のエネルギーは湾内で殺がれ、失速したようであった。
図 (1)
まず図面(1)に見るように相当に立派な漁港である。防波堤は幅広で海面から高く、外洋側はテトラポットで一様に補強されている。中小の漁船の舫(もや)う船泊まりはよく整備されて船の数も多い。なにより防波堤が二重三重に港を守っている事は誰でも気がつく。なにか信念を感じざるを得ない。今次津波の結果からみて津波防災を目的に港造りをしたのでは?と思うが、村の広報誌は敢えて津波防災が動機ではなかった事を強調している。広報誌詳細
泡立ち白濁して太田名部漁港一帯を襲撃した津波は印象的であった。写真であるいは動画で誰でも目にすることが出来る。住民も高台から詳しく観察している。泡立ち白濁しているのは生業のための漁船や水揚げ施設、加工施設、漁協建て屋などを津波が凶暴に破壊している姿であったが、一方で、強固な実用の港湾施設である岸壁、防波堤、テトラポットに妨げられて津波がそのエネルギーを徐々に失っていく姿でもあった。…。図面(2)は私のイメージである。複雑な波の動きを画いたつもりである。実際に高台などから観察した人たちが見た波の動きについては対比的に非常に興味があるところである。
●津波エネルギーの 1/3 は防潮堤を襲った。
図(3)の矢印で示した防潮堤そのものへのせり上がりは聞くところによれば防潮堤の1/2まで、あるいは1/3までの高さだったという。実際はどっちであったか?波の動きの観察などもふくめてこのあたりの事は記録してほしいものだ。更に詳しく聞いたところでは防潮堤に達した波は「死んだ波であった」という。映像で見るかぎりでも、湾内の津波は防潮堤の足下から高くせり上がる力はなかったように見えた。津波が港湾内でエネルギーを使い果たしたというのは事実のようである。その意味で15.5mの防潮堤の津波阻止神話が揺らいだ事もまた真実である。
●津波エネルギーの 1/3 は大沢川を遡上した。
残り1/3の津波のエネルギーはいなされたようにして太田名部漁港に注ぐ大沢川に遡上していったのではなかったか?遡上した事は確かなようであるがその様子はよく分からなかった。見たところ相当広い河川敷をもっている。港湾と、防潮堤に守られた集落と、そしてこの河川の地勢的な位置関係はとてもユニークに見える。エネルギーというより、より直接的に大量の水量を遡上させてかなりの津波負荷を軽減させたのではないかと思われる。今ここにきて、この川への水門設置の要望があるというが、どうなのであろうか?よくよく検証してからの事にしてほしいものである。