宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。 藤田幸右(ふじたこうすけ) 管理人

普代村太田名部漁港の津波(2)

2012年06月20日 | どうなる避難対策

 太田名部漁港防波堤 (2012.6.4)




広報誌詳細 普代村広報誌の抜粋

「強固な漁港の建設」

 昭和22年から同62年までの10期40年普代村長を務めた故和村幸得氏。その著書「貧乏との戦い四十年」の中で「太田名部漁港の着工」と題してこう記してあった。


 太田名部漁港は、いよいよ着工した。しかしその前途は決して平穏なものではなかった。毎年襲ってくる台風の都度、工事の手戻りがあり、ある時は災害に次ぐ災害で大変な試練を受けたものであった。(中略)
 相次ぐ災害で苦しめられていたころ、漁港大会が鹿児島県で開催され、県内の漁港を視察して回った。
 驚いたのは枕崎漁港を視察したときである。その前に台風が枕崎に上陸したことを新聞報道で知ったので、枕崎漁港はどのようになっているか、私は大きな興味をもって視察に参加したが、何も被害の後がないので非常に驚いたものであった。そこでは防波堤はケイソンの外側をテトラポットで厚く覆い、実にごつい感じであった。
これだ!と思い、県の係官に「太田名部漁港の防波堤はきゃしゃである。枕崎の防波堤と比べてみてください」と語気を強めて言ったら、詭弁に等しい回答があった。「国費の無駄遣いをしないように、十の波力に対し十一の力をもった防波堤を作ればよいので」と…。当時はそのような考え方がまかり通っていたのである。今では、枕崎の防波堤をしのぐ強固なものになっている。


 このような理由から、普代にはテトラが多く存在し、大津波にも耐えた防波堤が存在した。
(「広報ふだい2012年2月号」リポート記事「震災後11ヵ月、ワカメ漁間近~あすへの光~」より)


──この村長はすごいと思って読んだ。なにより、地場産業である漁業を守ろうとする熱意にうたれる。好奇心や問題意識は若々しい。県の役人に向かって南の果ての漁港を引き合いに出して説得する様子には迫力がある。そして成し遂げる。果敢に挑戦する首長の姿がある。

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