今なぜ普代村太田名部地区なのか?
第一に、この地区の港湾施設(岸壁、防波堤、テトラポット)建設と維持管理、集落を囲む防潮堤、大沢川の河川敷が、今次津波に対するそれぞれの機能を典型的に果たしているからである。それを神格化させてはならないが、津波防災対策としてはトータルとして成功的に機能したからである。漁船や港湾建屋はともかく、人家密集地である太田名部集落がとくに人命の点で何一つ被害に遭わなかったという事は東日本太平洋沿岸一帯の中ではほとんど奇跡的である。その意味で、今後、津波と無縁ではない全国の津波地帯の防災やまちづくりを考えるとき多角的な面から生きた成功(参考)事例として避けて通れないと思われるからである。
北に隣接する普代川河口水門についても同じことが言える。まさしく15.5m高の水門は、その高さでなお津波の越流を許したものの、水門本来の津波防災機能を100%発揮した希有の施設であった。消防団員の必死の活躍と頑丈な造りをもって市街地中心地への津波侵入を理想的に阻止したということが出来るのではないだろうか? 今回、この水門については素通りしただけであったが、詳しく検証することで直接得るもの、将来にわたって大きく参考になることは太田名部地区と同様であると思われる。
第二に、宮古市の、津波防災をわれわれ自身が考えるとき、鍬ヶ崎、閉伊川、藤原、磯鶏、高浜、金浜、津軽石、津軽石川、赤前、白浜等、宮古湾一帯の個別地区地区防災のありようにとって普代の成功例は強力な基準になるからである。岩手県庁は宮古湾を単一の防災地域と考えて一律10.4mの防潮堤と水門で湾内を密閉する事にして、以後、思考停止におちいっており、宮古市も、追従、思考停止中である。が、そのような幼稚な机上の設計で防災が済むわけがないことは沿岸の住民は誰でもが考えていることである。一方、鍬ヶ崎地区や他の地区地区において、それぞれの防波堤、波消しブロック、船舶ふ頭、荷役岸壁等の実用・実業の港湾設備は津波防災とは関係ないものとされて、それぞれの地区において、今現在、湾岸一帯で中途半端な復旧工事やその場限りの修繕が行われているところである。高浜地区では早々と宮古湾囲いこみ防潮堤の一部工事が進められているが、それが同地区の他の港湾施設と防災の点で連携をもつことはない。この「それはそれこれはこれ」の考え方は、港づくりが津波防災に大きく貢献した普代村太田名部地区とは根本的違いを見せつけている。これが、いま普代村太田名部地区である一番の理由である。
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