こんな小さい事で勝負する気はないが…
「磯鶏防潮堤」は末期的工事になっている
<磯鶏地区防潮堤「窓」工事>
防潮堤窓枠(海側)どこにもアクリル窓枠のボルトの受け穴がない
最初から窓枠真ん中に亀裂が走っている。
同上
防潮堤の覗き窓(陸側)ここから海を見る(冷笑…
完成。枠にアクリル窓枠をはめて完成。あと防護紙をはがすだけ…
下段の鍬ヶ崎地区防潮堤のようなアクリル窓枠のボルトを受けるアンカー穴がなく、単にYKK的アルミサッシ窓のように防潮堤躯体へのパッキング取り付け方法で完成させているようである。調べなければならない…
地震発生段階で窓中心を縦に走るつなぎ目が外れ、パッキングした窓枠が吹っ飛ぶ。軽々と津波はそこを襲うだろう。
比較参考 <鍬ヶ崎アクリル窓枠工事写真>
窓枠工事
アクリル窓枠のアンカーボルト受け入れ穴
鍬ヶ崎の工事を持ち上げるつもりはない。宮古湾の景観や気象などをこのような窓から観察する事ではなく、防潮堤が、海や空や風や状況を陸側から遮蔽(しゃへい)する事が問題なのだ。窓は主観的免罪にすぎない。海が見えなくなる、海がなくなるという事は根源的な宮古市民のアイデンティティにかかわる事だ。景観、海の生業、自然環境、津波防災等にとって防潮堤が災いとなる。
ここで言いたい事は、宮古市磯鶏海岸で展開されている防潮堤工事が、津波を甘く甘く見て、工事の目的までも見失った末期的公共工事の実態であるという事である。だんだん投げやりな、工事のための工事になってきている。
限りなく危険だ。見学や説明要求など市民の工事への関心を高めたい。
写真:磯鶏、鍬ヶ崎とも古舘和子氏