昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

春の淡雪

2010-02-18 | 自然界
朝早く、霜かと思いきや雪だった。立春の2日後のことだった。これが初雪だった。

雪の結晶をと思ってカメラを向けたが、すでに融け始めている。カメラがそばに来て、その放射熱でも忽ち結晶の角が丸くなります。


淡雪ですね。





中谷宇吉郎博士の雪の結晶の写真のようには行きませんね。




この程度の淡雪であれば、オリヅルランは枯れませんね。雪にすっぽりと包まれると、見事に消えてなくなります。




固い蕾も、ほんのりと紅を挿して、春の訪れを告げます。

六甲縦走ハイク起点須磨

2010-02-17 | 話題
 六甲山縦走52kmのスタート地点が須磨連峰である。宝塚まで標高差900mを歩く人がいます。

旗振茶屋(標高252m)は今はお休み。昔から毎日登山などで、押印を貰う人たちの登録が数百人、最高は15000回も記録されている。この人はどうなっているのかなあ。2番手は9000回でした。走って上がれば10-15分くらいでしょうか。


案内板



鉄拐山・鉢伏山などで俗に須磨連峰と言うときもある。義経はこれらの山を海岸線まで逆落しをしたという説もあります。いかにもそれらしい崖があります。




縦走路である。




山並みが重なって見え、その最も遠くで霞んでいる山麓辺りが、阪神間の芦屋市の辺でしょうか。更に遠くの白く見えているあたりは大阪ですね。




赤いラインが、六甲山縦走ハイキングコースです。右の方に須磨離宮公園が見えます。
地図のラッピングが取れかかって見難いですね。







延命地蔵尊が祀ってあったり、毘沙門天さんがいたり。




バードウオチングもできそう。秋にはタカの渡りが見られるという。




ほっと癒してくれるツバキ。この花は侘び助かも。

法華寺(国分尼寺)

2010-02-16 | 歴史・文化遺産
2008.11/19-20に秋色の法華寺をアップしています。

 天平元年(AD729)聖武天皇の皇后として、藤原不比等の娘の光明皇后が就きました。民間からの皇后は最初です。

 
 光明皇后は、国分寺を全国に設立されたことに鑑み、国分尼寺を全国に設立しました。今年は光明皇后が亡くなって、1250年忌に当たります。 





彼女は、悲田院や施薬院を建立して、庶民の病人治療・孤児救済・貧困者の救済などを実施しました。その第一号の国分尼寺が法華寺です。総国分尼寺でした。





丁度、白梅が一輪咲いた2/8の頃でした。





天平の大屋根は堂々たる物です。スキーでも出来そうなほどのスロープを持っています。






明治時代の小説家、高山樗牛(ちょぎゅう)の作品に出てくる「滝口入道」と「横笛」の悲恋物語に登場する横笛は、ここ法華寺で出家し、行い澄ましていたといいます。





法華寺の総門から約50m外に出たところに、何と「横笛地蔵菩薩」のお堂がありました。これまで気付かなかったものでした。

以和為貴

2010-02-15 | 歴史・文化遺産
  和を以って貴しと為す彼の憲法に出てきますが、この四文字は今もって遣われたりしますね。 

 写真の碑にある呂のような字ですが、意味は以ってと同じだそうです。第5水準の字だそうで、部首は己、以の異字体だそうです。館の字の中の旁の方にありますね。




ここ勝軍寺の境内に、椋(むく)の木伝説があり、それが具現化されたお堂があります。




椋の巨木の中に、太子が隠れています。




聖徳太子が物部守屋に攻められ、絶対絶命の時に、椋の木が割れて、そこに隠れて九死に一生を得たという。
彼は戦勝後、敗者の守屋とともに、我が16歳の時の像をともに祀ったという。




正面に本堂があり、その背後には聖徳太子の尊像を掲げる広い講堂がある。屋根の鴟尾(しび)が堂々としている。




格子の隙間から見える大きな聖徳太子画像。



境内の中の地蔵堂の前で、何やら話し合うお地蔵さん。


戦う聖徳太子

2010-02-14 | 歴史・文化遺産
日本書紀によれば、我が国に仏教が入ってきたのは、AD552年でした。欽明天皇の代に、仏像が中国から渡ってきました。
 それが、現大和川の上流、初瀬川(桜井)の畔と言われています。そこには「仏教伝来の地」の碑が建っています。(2005.4/25でアップ)

この時、天皇は新しい仏教を取り入れようとしていたので、そのことを臣に諮りました。外来のものに憧れる蘇我氏と国内の五穀豊穣を祈る国ツ神を押す物部氏の対立が出てきました。
 対立で困った天皇は「それでは蘇我氏が試みに仏教をやってみよ」となりました。

 以来、仏教の蘇我氏と、国ツ神を護る物部氏の争いが残りました。

 後の世になると、神と仏はどこかで手を繋ぐ信仰になっていったことは興味深い。




 用命天皇の御代になって、天皇が仏教に帰依すると病床で言ったことで、廃仏の物部氏は、危険を悟り、自分の領地である河内の八尾市に身を引きました。戦いの準備だったかも。

蘇我氏の流れをくむ聖徳太子は、ここ河内の八尾に出陣をしました。「仏法最初太子堂」とある。
 






聖徳太子はどこで戦ったかをご覧ください。八尾の勝軍寺で戦勝ならば、四天王寺を建立する約束をしました。 二上山は家から見えた山です。




聖徳太子信仰もあって、札所3つも含みます。




たいそうな名前ですね。すべての僧・神官もその他すべての人からの信仰を集めた人でした。




太子像を護るように、四天王像が立っています。

須磨のロマン

2010-02-13 | 歴史・文化遺産
須磨浦公園駅には山陽電車が停まる。





右下の須磨浦海岸は今は魚釣り公園があるが、そこはもはや海水浴が出来る海岸ではありません。
JR、国道2号線、須磨浦公園(戦の浜戦跡碑)、山陽電車とが山麓の狭隘な平面を走っています。

回転展望台から、更にリフトで、公園に出ます。その先に梅林があります。




山麓に、敦盛塚があります。
熊谷次郎直実は組み敷いた平敦盛の首を泣く泣く落としました。この時に浮世の無情を悟り、源平の戦いが終ってから出家し、蓮生坊と名乗って敦盛の菩提を祈ったと言います。

敦盛の胴塚と言われます。



古く明治以前から、ここにお参りに来る人が絶えません。敦盛茶屋があり、名物の敦盛そばを食わせる。
何と、暫く訪れない間に茶店が、立派な2階建ての家屋になっていた。

 主人は古地図を持っていた。それによると、義経の一の谷の奇襲作戦を、日本軍はそれを教材にして、戦争の勉強をしたという。しかもガダルカナルの戦いで実践をしたという。




敦盛の首塚のある須磨寺(2009.4/17アップ)の境内には、熊谷と敦盛の像がある。






須磨寺の寺宝の掛け軸、敦盛弱冠16歳、きらびやかな鎧を付け、熊谷の呼びかけに振り向いたのでした。


須磨浦山上景観

2010-02-12 | 話題

始まったか梅祭り。



2-3歳の頃の写真がある須磨の海岸。幼稚園の遠足がここであった記憶があります。



手前に須磨連山が並び、彼方には遠く六甲の峰々が見えます。



左:現在地が旗振山。縦走距離56km、標高差930m。この旗振山は大阪の堂島の相場を伝える為に旗を振っていたそうです。背後の播州に通信したと言う。
右:カーレーターにも乗ります。





須磨海水浴場も、砂浜に仕切りが付いています。向こうの人工島は神戸空港です。




須磨一の谷の合戦のあった辺りは、魚釣公園になっています。海岸際にJR山陽本線が走ります。




山上遊園の寒椿が、シモヤケで真っ赤になっています。




スイセンは今が盛り。




峰を繋ぐリフトが、摂津の国と播磨の国の境を通過します。




芭蕉の句はよく知られていますね。


 
日当たりさえ良ければ、花は元気に咲きますね。椿はあまり元気でないほうが風情があるかも。これ、サザンカかな。


春の須磨の浦

2010-02-11 | 旅の風物
立春の日、須磨の浦に梅の開花を求めて出かけた時の写真です。須磨連峰の上から淡路島を遠望します。

春の海 ひねもすのたり のたりかな  蕪村 



大阪湾の距離と地図がありました。上方友が島から先が紀伊水道、そして太平洋です。





橋脚間隔が世界一の吊り橋です。行きかう船がこんなに少ないのは初めて見ました。






橋の上の車が見えます。春でのんびりか閑散としていますね。ところで、橋の工事中に阪神大震災が起きました。橋脚がずれて、設計よりも1m長くなりました。




貨物船が西へ向います。かなり積荷は重たそうです。




遠く泉州の山々が霞んでいます。関西空港は見えませんね。



淡路島 通う千鳥の鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守は、西の玄関口として要衝の地でした。のりの養殖をしているようです。

 かたつむり 角ふりわけよ 須磨明石   芭蕉
 春の海 ひねもすのたり のたりかな   蕪村
 ことずてよ 須磨の浦わに 昼寝すと   子規 


ご近所の東西南北

2010-02-10 | 話題
家に近い建物の上から、周囲を見渡す機会がありました。どちらを向いても、民家があり、自然の野山までは遠いですね。

 北を見ます。谷がかなり奥まで見通せ、その遥か行き止まりには丹波篠山地方の山々が見えます。
 下の方に見える白いラインは山陽新幹線です。長蛇のシルエットは16両編成で博多行きです。写真の画面に入りきれませんね。





さて、この新幹線車両は6両編成です。広島か岡山行きでしょう。赤い矢印は先頭部と最後尾を指しています。




 東を見ると、大阪平野が視界に広がります。大阪駅の近くのスカイ遊園のツインビルが、意外と近くに見えます。
 右端には大阪と奈良県境の二上山の鞍部になった稜線が見えます。





南は時雨れているような雲行きですね。ワタのような雲がふわりと浮いているように見えます。にわか雨模様ですが、大阪湾を隔てると、彼方の泉州の山々が見えます。





夕陽が西へ沈みかけました。


金色の龍が現れました。瑞兆かも。

名所めぐり(おのころアイランド9end)

2010-02-09 | 歴史・文化遺産
 次のコーナーは、流水に乗って川を流れ、コース沿いに並ぶ、世界めぐりです。冬の間は休止しているので、ずかずかと中に入り撮りました。

いろいろなスタイルのモアイ像が立っています。顔だけのものは、本当は身体が地面の中に入っていて突っ立っているものです。山の斜面を移動中に、放棄された姿です。

岩山の切り出したところから、イースター島の島中に、どうやって運んだかは謎です。現在のところモアイ像は、立ったたままで運んだと言う説が有力です。




朝4本足、昼2本足、夜3本足は何もの?と問いかけたスフィンクスがいましたね。




跳ね橋のある風景です。








ドンキホーテが出てきそうです。




ギリシアのエーゲ海のミコノス島の海岸線。まるでアニメの世界。







タイの夢多き民族衣装が輝きます。




国産の物資運搬船は北前船として活躍、世界で名を挙げた。実物大で展示されている。



 淡路の豪商、高田屋嘉兵衛の持ち船(1500石)であり、彼は北の国、ロシアとも交流を持ち、鎖国日本の殻を破りロシアとの通商などにも功績があった。


北前船を駆使して、ロシアとの交渉を通じて外交面で大使の役割を果たした。
 



冬の日暮れは早い。1/19の午後からのドライブでした。