夫は十分に寝ると、今度は手持ち無沙汰になったようだ。
「ねぇ、家に帰ってパソコンを取って来たいんだけど、いい?」
「ああどうぞ。」
夫は病室を出て行った。
それから弱い陣痛を不規則に感じるようになってきた。
午後1時40分、5分おきの陣痛が規則的に来るようになる。
よぉ~し、いよいよ始まったぞ。
ジョアンナが入ってきた。
「ごめんなさいねぇ。あなたに付きっきりでいてあげたいんだけど、今日は緊急帝王切開も多くてナースがそっちにさかれているの。私一人で4人の妊婦さんを見ているのよ。」
「何かあったら呼びますので、私にはお構いなく。」
「あれ?ご主人は?」
「パソコンを取りに帰りました。」
なんて不真面目な夫だろうっと思われていることでしょう。
ジョアンナは陣痛の波を計る機械の記録をチェック。
「あら、陣痛が規則的になってるじゃない。ほら私が言ったとおりでしょ、ちょっと脳に信号を送るだけであとは自然に始まるって。」
ほう、もうこれは薬の力じゃないんだ。
「痛くなったら呼んでね。」
ジョアンナはまた病室を出て行った。
一人ぼっち。
まだまだこの時は余裕しゃくしゃく。
30分も経たないうちに、陣痛はかなり強くなっていた。
2時過ぎ、もうベッドに寝てなんていられない。
座ってみたり四つんばいになってみたり、一番ましな体勢を探す。
2時20分ごろ夫がやっと戻ってきた。
陣痛はかなり強くなったものの、波が来る感覚は5分くらい(だったと思う)。
陣痛の波が来るたびにふーっふーっふーっの呼吸法で痛みに耐える。
ジョアンナが入ってきた。
私が呼吸法で痛みに耐えている様子を見て言う。
「始まったね。少し楽になる薬を打ってあげようか?」
「もう少し頑張ってみます。」
このときに打ってもらっていればよかったとどれだけ後悔したことか。。。
「耐えられないほど痛くなったら呼んでね。」
またジョアンナは出て行った。
耐えられないほど痛くなるのに15分と時間はかからなかった。
2時45分くらいだろうか、波の間隔はまだ結構あるのに、すごく強い陣痛が押し寄せてくる。
「ふーっふーっふーっ」もうだめぇ~。
自然と涙が出て来る。
毎回波の度に、陣痛は強くなっているようだ。
「もう無理、私ギブアップ。無痛分娩をお願いしよう。」
かなり弱気の私。
「マー君の時は若かったのよ、今はむりよ耐えられん。ジョアンナを呼んで。」
3時ごろ夫がジョアンナを呼ぶものの、彼女も忙しくてすぐには来られないようだ。
「ジョアンナはまだなの?」
すっごく長く感じたけど、たぶん15分か20分で彼女がやってきたと思う。
「もうだめ、耐えられません。」
「痛いのはどの辺?前のほう?後ろのほう?」
「いや真中です。産道の辺りとでもいいますか。」
「え~本当?ちょっと子宮口の開き具合をチェックしてみましょうね。」
ジョアンナは急いで手袋をして子宮口をチェック。
子宮口のチェックをしたのは後にも先にもこの1回だけだった。
「あらホントだ。赤ちゃんがもうそこまで来てる。子宮口も8cmいや9cm開いているわ。ごめんねぇ、こんなに早く進むとは思わなくて、これは辛かったでしょう。」
そりゃそうだ、陣痛が規則的になってまだ1時間ちょっと、お産の始まり程度にしか思わなかったんだろう。
そういえば彼女言ってたなぁ。
たいした強い陣痛でなくても、この世の終わりのように叫ぶ妊婦さんもいるから、痛みの程度なんて見た目じゃ判断できないっと。
その時、陣痛の痛みが変わった。
体の筋肉のすべてが勝手に動いて赤ちゃんを押し出そうとするあの痛み。
これが一番耐えがたい最後の段階。
ここでいきんじゃいけない。
呼吸法でいきみを逃さなきゃいけない。
「ヒッヒッヒッフ-」
いきみを逃す呼吸法に変える。
その呼吸法を聞いてジョアンナが言う。
「プッシュしたい痛みに変わったのね。」
その時、ドロ~っと何かが流れ出た。血だ!
「子宮口全開大ね。すぐにお医者さんを呼ぶからいきんじゃだめよ。」
「ヒッヒッヒッフ-」「ヒッヒッヒッフ-」「もうだめ、あ~もう無理」
ジョアンナが電話をしている声が聞こえる。
「ドクタートーマスをすぐに呼んでください。」
でもこの時アンジェリー先生は他のお産で忙しく、そっちが終わらないと来られない。
また陣痛が押し寄せてきた。
「ヒッヒッヒッフ-」「ヒッヒッヒッフ-」「早く早くお医者さんを呼んでぇ」
普通この段階になると、陣痛の波は1分おきくらいなんだけど、私の場合1分じゃなかったと思う。
もっと時間があった。たぶん3分おきくらい。
ジョアンナがまた電話に向かって叫ぶように訴えている。
「次は私達です。そっちが終わったらすぐにこっちに来てください。待てません!」
たぶん他の誰かも先生を呼んでいるんだろう。
この全身の筋肉が収縮するような陣痛に5回くらいは耐えただろうか。
すっごく長く感じたけど、っということはたかが15分程度のこと。
「ヒッヒッヒッフ-」「ヒッヒッヒッフ-」「先生はまだなの~?」
その時電話が鳴った。
たぶんアンジェリー先生がこっちに向かったという電話だろう。
ジョアンナと助っ人の看護婦が急いでベッドの下の部分を取り外し、あっという間にベッドが分娩台早代わり。
そこへアンジェリー先生が入ってきた。
ジョアンナが経過を報告する。
「出血を見て子宮口が全開大したと判断、その後はチェックしてません。」
先生は黙ってうなずきスタンバる。
ジョアンナが言う。
「次の陣痛でプッシュよ。ここに力をいれて。」
お腹を指で押す。
「いきんでいいの?あ~嬉しい。」
みんなスタンバイOK
「あ~、来た、来た来た来た。」
私が言うとジョアンナが英語に訳してみんなに伝える。なんか笑える。
「息を吸って~、止めて。
プーッシュ!」
いった~い。
プーッシュと言われても痛くてどこに力を入れていいか分からない。
アンジェリー先生の声が聞こえる。
「プッシュ、プッシュ、プッシュ」
わけわかんないから、なりふりかまわず力を入れてみる。
力さえ入れれば自然に筋肉が赤ちゃんを押し出そうとする。
でも痛くて長続きしない。
先生の声が響く。
「もっと長く息を止めて。長くいきめばその分早く開放されるのよ。」
長くって言われたって、痛いんだもん。
先生は大きな声で言う。
「プッシュ、プッシュ、プッシュ」
はいわかりましたプッシュします。
「う~~~ん。」
ブルン!
私はこの時一瞬産まれたぁ!っと思った。
でも先生の声が続く。
「プッシュ、プッシュ、プッシュ」
え?まだなの?
実際はこの時頭が出ただけだったようだ。
「う~~~ん。」
ブルルルルン!
産まれたぁ~~。
看護婦さんが赤ちゃんの体を拭きながら私のお腹の上に乗せた。
元気のいい産声が響き渡る。
3時40分、泰君誕生!
規則的な陣痛が始まってわずか2時間、たった1回の陣痛で産まれた。
超安産。
しかも会陰裂傷すらない。
夫が言う。
「お疲れ様、結局また自然分娩だったね。」
「うん、楽しかった!」
「え~、あれだけ苦しんでおいて楽しかっの?」
本当に楽しかった。
麻酔なんてやらなくてよかった。
痛みも苦しみも全部忘れちゃった。