湯西川日記

fbやツイッターで一年サボりましたが、やっぱりブログです。2016年から復活します。ツイッターの長い版みたいな感じです。

習い事、芸事

2014-06-28 21:49:10 | 学習

習い事というのは、そろばんくらいである。個人的にレッスンを受けるのは、今年になってギターを習いだしたのが初めてである。

習い事というのは、それ自体がなかなか良い。何がよいかというと、自分で教材を探したりレベルを考えたりする必要がないというのは当然のこととして、自分で納得がゆくまで練習できるところがよい。家で何回も何回もうまく弾けるまで練習する。ものすごくストイックな時間である。ふと気がつくとものすごく集中している。

集中して技を磨いていると、自分の心も鋭敏になる。最近仕事のスピードがものすごく上がったのは、習い事のせいのような気がしている。おそらく間違いないであろう。

もう一つの効用は、自分の目標ができることである。もう50にもなると、老い先短い気がして寂しくなるが、習い事をして上達しようという気が出ると張り合いが出る。趣味に終わりはないのだ。芸事に終わりがない。歌舞伎の役者さんや焼き物の師匠が高齢になっても若々しいのはこれである。

芸事のレベルというのは人それぞれであるから、下手でもよいわけで、下手は下手なりに打ち込めばよいのである。そこに終わりはないし、そこそこのレベルで人に披露する喜びもあるはずである。当面の目標はそこにある。


雑誌びりびり事件

2014-06-28 00:10:57 | 学習

水越豊さんのコラムを読んでいたら、自分のこどものころを思い出した。水越さんは図書館や書店で興味の分野を膨らませたとあるが、自分の場合は田舎で、書店や図書館がない。学校から帰っても家に誰もおらず、読むようなものもなかった。

その代わりに父親が買った高校野球の週刊朝日の特集号を熱心に読みまくっていた時期があった。たしか、小学校5年ごろだと思う。そういう時期だったのだろう。ほかに読み物があれば熱中していたはずだ。

しかし、当時それしかなかった。あとは教科書だけで、もったいないという理由と不良になるという理由で町の書店には行かせてもらえなかったし、お小遣いももらえなかった。共稼ぎということもあり、要するにほったらかしだったのだ。

その熱中して読んでいた週刊朝日の昭和49年夏の甲子園特集号なのだが、ある日、気がつくとないのだ。家中どこ探してもない。不思議に思って、母親に尋ねると、知らないといっていたが、しばらくして白状した。

門のそばの樅の木の根元にびりびりの紙の塊がある。シュレッダーをかけたようなきれいなびりびりの紙の塊がある。よく見たら、それは変わり果てた愛読の週刊朝日であった。そればっかり読んでいるのが気に食わなかったのだろう。ある日、怒りが湧き上がって手で粉砕してしまったのだ。そういう親だったのだ。もう涙も出なかった。

水越さんは次から次へと雑誌を読んで興味を膨らませて成人したが、自分の場合は、週刊朝日がびりびりに破り捨てられたその日で終わってしまった。他に読む本がなかったからだ。周りに書店も図書館もなかった。