和歌山市駅から程ないところにこんなものを発見。弟子の坂本龍馬を連れて、ここらにいたとある。勝海舟は、日本全国行ってるな。
それにしても、市駅の前。シャッターの下りている店が目立つ。どないかせんといかん。
和歌山市駅から程ないところにこんなものを発見。弟子の坂本龍馬を連れて、ここらにいたとある。勝海舟は、日本全国行ってるな。
それにしても、市駅の前。シャッターの下りている店が目立つ。どないかせんといかん。
和歌山城に登った。何十年ぶりだろう。和歌山城は城としては大したことがない地味なお城である。姫路城や熊本城や松本城のほうが上である。であるが、眺望はなかなかである。
これが海のほう。淡路島、四国が見えている。
これが海と反対方向。ワシの実家のあるほう。
これは大阪の方向。紀ノ川が見えている。
これは南のほう。手前は和歌山大学の旧校舎。付属中学校のグラウンド。
こうやって見ると、和歌山市は大きな町である。
英語辞書は、最近はどうしても電子辞書が中心だが、いろいろ疑問に思うことが多い。
電子辞書のよいところは、手間がかからず辞書が引けることと、ポータブルなこと。それから、見た目が良いところだ。紙辞書をぺらぺらめくるより、電子辞書で調べたほうがおしゃれであろう。
しかし。電子辞書の不便なところは、単語の付帯的な知識がわかりづらいことだ。電子辞書だと、画面を下のほうにずっとスクロールしていかないと全体が見えない。そこまでするケースは少ないし、下までスクロールしてゆくと、上のほうが見えない。
この点、紙辞書だと、一目で全体が見える。前置詞がくっついた使い回しも太字で書いてあることが多いから、即座にわかる。紙辞書のよいところである。一長一短がある。
デールカーネギーの本。ものすごくいい。勇気が湧いてくる本である。
なんで日本にはこの手の本がないのだろう。あるのかもしれない。いいなあと思った本は確かにあるが、何度も読み返したくなる本はない。
how to stop worry and start livingは何度も読む本だ。気が向いた時に、あそこが読みたくなる。そんな本である。
「道は開ける」という書名で翻訳本も出ているが、原書で読むべきである。翻訳本は読んだことがないが、ダイレクトにデールカーネギーの言葉を読むべきである。ワシの人生でベスト5に入る本である。
公案というものがある。禅の世界で、師が弟子に問うものである。ワシも、もう10数年になるが、公案を一つ抱えたままである。大阪のお寺の老師が授けてくれたものだが、全然答えが浮かばずに今に至っている。
東京暮らしで、お寺に行く機会もめったにないから余計に抱え込んだまんまになっている。一生この状態なんだろうと思っていた。ところがである・・・。
12月に父が死んで、いろいろとものを思っているうちに、ふと公案の答えが浮かんだのである。10年以上答えの出なかったものなのに。何だかわからないが、自分という人間の中身が変化したような気がする。
実は、この土日、大阪に行く予定。禅会にも出るつもりで、できれば、参禅に出るつもり。もしかしたら、もっと練ってこいと言われるかもしれない。でも、楽しみである。
キリスト教でも仏教でも、すべからく人は罪人とされている。なかでも、法然さんも親鸞さんも、このことを強調して説いた。彼らは何を言わんとしていたか。大胆にも、人は、たやすく罪人になりうる弱い存在であると説いたのだと思う。
世の正義というものさえ、時代が変われば、悪になりうる。あんな真面目な人が、という人が電車の中で見ず知らずの人を傷害したりした例はいくらでもある。罪はたやすく起きうる。この点、よくよく自分を自制して監視しなければならない。
殺人犯といえど、生来の殺人犯はまず、いないし、事件を起こすまでは殺人を企図してはいなかったはずである。はずみで人を殺(あや)めてしまった、というのが圧倒的に多いのだろう。凶悪犯といえど、自分たちとまったく異なる存在ではない。いわゆる、生身の人間である。
一方で、罪がたやすく起きうるから、罪に対しては罰を設けなければならない。抑止力ともいえる。このことがなかった社会は過去に存在しなかった。死刑が必要か、必要でないか。死刑がなくても抑止力は保てるか。答えはそのあたりにある。極刑の適用判断において、罪人が更生可能かどうかが焦点にはならない。
ころころ、ころころ大臣が代わるから、職務を全うしようという責任感がないのだろう。仲井間知事に普天間固定化を許さん、といわれても下を向いて最大限努力します、というだけである。
本人には、やりたくもないのにやらされているという気持ちが強いのだろう。名誉はほしいけど、早く内閣改造してくれないか祈るばかりだろう。何も真剣にやる気がないのだろう。ふざけた話である。
逆に、万が一、やる気になっても、任期が短いから何もできないというのもある。また、ヤン場ダムのように、次の大臣になったら、ころっと政策が代わったりする。いったいなんなんだろうか。
結局のところ、野党のときは文句ばかり言ってればよかったのが、与党になってもないもできないことが明らかである。頼みの綱は与野党大連合。こんなんなら、最初からマニュフェストやら何やらやるなっちゅうの。