このまえ、北上駅で撮影したものだ。3月6日にお目見えする、東北新幹線はやぶさ号である。
左がはやて、右がはやぶさ。かっこいいが、何だかロボットみたいで味気ない。どんどん進化してゆくが、あまり感慨はない。
旧東北本線だ。ここを特急「はつかり」が走っていたころは、もう遠い昔だ。
(在りし日のはつかり。これは拾いもの。)
懐かしい。もう帰らざる日々である。
それにしても、昔の特急列車は乗り心地はひどかったものだ。あれでは、今の自分では3時間が限界。そういう意味では、新幹線はよいのだが。
このまえ、北上駅で撮影したものだ。3月6日にお目見えする、東北新幹線はやぶさ号である。
左がはやて、右がはやぶさ。かっこいいが、何だかロボットみたいで味気ない。どんどん進化してゆくが、あまり感慨はない。
旧東北本線だ。ここを特急「はつかり」が走っていたころは、もう遠い昔だ。
(在りし日のはつかり。これは拾いもの。)
懐かしい。もう帰らざる日々である。
それにしても、昔の特急列車は乗り心地はひどかったものだ。あれでは、今の自分では3時間が限界。そういう意味では、新幹線はよいのだが。
到着。今日はメイン側。
ザスパ草津のマスコット湯友君と。
試合はまったりとドローで終わった。けっこういろいろグルメなお店が出ていて、見るだけでも楽しかった。ワシは胃弱のイナゴなので。食べつくすことはできそうにない。
来週からシーズン開幕。味スタに行くのが楽しみ。
何度も続けて落選したこともあって、アンチ東京マラソン党である。10万円払えば走れるとか、芸能人やアナウンサーが走ったり、走るランナーに特権意識が感じられたり、ますます嫌いである。マラソン大会はいくらでもあるわけだし、月例赤羽マラソンは東京マラソン当日も行われる。東京マラソンだけが特別なマラソン大会ではない。そもそも、青梅マラソンも、谷川真理マラソンも、横田フロストバイトも抽選にはならない。
なぜ東京マラソンだけが抽選なのか。申し込む人数が多いからである。なぜ多いか。ふだん走らないランナーが申し込むからである。地方在住のランナーが大挙して東京にマラソンのために詰めかけるとは思えない。ふだん走らないのなら、参加は控えて、ふだん走っている草の根のランナーに出場させろ。というのがワシの言い分である。そもそも公正に抽選が行われているのか疑問だ。なぜチリの落盤事故の作業員が走れるのか。
東京マラソンの前は、ワシが最後の大会に出た、東京マラソン前身の東京シティロードレースが毎年6月に行われていた。このレースが抽選になったという話は聞いたことがなかった。また、東京マラソンになってから都心を走るレースが中央区マラソンを除けば東京マラソンだけになってしまった。
とにかく不満のたまる東京マラソン。明日は前橋にサッカーの試合を見に東京を離れる予定。サッカーも見たいが、東京マラソンの喧騒がうざいというのが第一の理由である。
企業がお金を払うとき、その見返りが無形であっても、すべてが費用になるわけではない。資産となる場合もある。個人がお金を使う場合も同様である。車や家電を買うのならそれは費用だろう。消費だ。こういう消費はできるだけしないほうがよい。お金が余っている場合は別だが、気晴らしや見栄でお金を使うのはもったいない。
では、どういうことにお金を使えばよいか。究極には、けちって余ったお金をどう使うかという問題である。うちの両親はケチだが、この問題に対して「どんと使う」といっていた。いっぺんに使うという意味である。これもどうかと思う。費用として使うことに変わりはないし、使う時期を変えるだけで、浪費には変わらない。浪費の気分的な効用は違うかもしれないが。
冒頭の例でいえば、余ったお金は投資に振り分けるべきであろう。企業の財務と同じである。しかも回収の可能性の高い投資に資金投下すべきである。自分の場合でいえば、会社に入ってから、自費で2年間学校に通ったが、この時のおカネは車2台分くらいだったが、転職する際に役に立ち、結局、給料増加という形で投下資本は十分回収できた。
いまお金を投下しつつあるのは、子供の教育費である。これは投資ではないだろう。二人とも私立に入れたから、けっこうな額になるが、将来帰ってくるわけではない。まして、老後の面倒を見てもらおうなどとは考えていない。あくまで子供たち個人の人生のために使っているわけである。しかし、娘たちが受験で第一志望に合格した幸福感は、それまでの塾の費用をかんがみても代えがたいことはたしかである。
大昔、キャリーというホラー映画があった。怖かった。
今怖いのは、キャリーバッグである。後ろから、がらがら、ごろごろ、つけてくる。
ワシの棲む西新宿や都庁前近辺は特に多いようだ。後ろから写真で撮っても、音がうるさいからなのか、まったく気づいていない。
がらがら、ごろごろ。うっとうしい。
少々大きな荷物でもショルダーで肩にたすき掛けするほうが、ベッカムみたいでかっこいいと思うのだが。人混みの場所では危険である。だいたい、中には何が入っているのか。
弁当箱しか入っていなかったりして。
進学に際して高校を選ぶとしたら公立か私立か?
答えは私立である。非常に偏った意見である。ご容赦いただきたい。いくつか理由を述べる。
①公立学校は経営努力を行わない。
当たり前である。国や地方公共団体が立てた学校なのだから、経営努力する必要はない。最近はそれっぽいことはやっているようだが。私立学校は少子化の時代、大変な経営努力を行っている。命がけなのだ。この点、いくら公立学校が努力しても及ばない。経営努力を行わないということは、入学してもそれなりの教育しか受けられない、ということである。
②学歴にならない。(あえて、学歴にこだわる場合)
公立高校の場合、行政の決める学区によって、著しく学校のレベルが左右される。60年代以前の東大進学率トップの日比谷高校は一時凋落した。ワシの出た県立第二高校も、ワシが入学したころは学区最難関であったが、今は学区が撤廃され、トップ校の座を追われた。いくら入るときに努力して入試を突破しても、後年、学歴にならない可能性もあるということだ。
③母校にならない。
公立高校は先生が立ち代り入れ替わる。したがって、数年たつと先生ががらりと入れ替わる。また生徒の質も変わる。②に記したとおりだ。質が一貫していないということだから、わが母校にならない。名前と校舎といったハードが母校というだけだ。ソフト面はすでに母校ではない。
④スポーツで全国区になり難い。
私立高校は資源を集中配分することが可能だから、特定の部を全国大会に出場させることは容易である。公立高校にはそれは不可能である。最近の野球やサッカーの全国大会を見ればわかる。母校が全国大会に出て、テレビや甲子園や国立競技場で母校を応援することは、その人の人生で大きな喜びとなりうるが、公立高校ではその可能性は低いということである。
①~④。公立高校には、様々なリスクやデメリットが付きまとう。その分、コストが安くつくということである。要するに、安かろう悪かろう、である。
今年、娘ふたりの入学先を私立にした理由である。ちなみに、親は私立で学んだ経験がない。
本日の記録。30キロ。満足。3時間切れればよいと思っていた。
8時に練馬の家を出たのに、何と河辺に着いたのは11時15分。吉祥寺で電車が止まったのだ。河辺小学校でゼッケンもらって、体育館で着替えてスタート地点に行ったら、すでにスタートしていた(笑)。
しかたなく、最後尾から走ったのだが、1万7千人も走るレース。なかなか前に出れない。15キロの折り返しの後、反対側車線に人がまばらになった18キロくらいからようやくまともに走ることができた。こんな状態で3時間切れたのだから上出来だと思う。
ゴール間近にたくさんの人に追い抜かれたが、思えば彼らはスタートの早かった連中で、3時間ぎりぎりで駆け込み疾走していたようだ。写真は後日。とにかく遅刻で、青梅はただ走っただけだった。青梅マラソンタオルも購入できず。
それにしても、30キロ走ったわけだが、フルだとあと12キロ走らねばならない。今日も特段、足がつったりしなかったし、乳酸菌のたまり具合などみても、フルを走ること自体は何とかなりそうである。ただし、4時間切るとなると、厳しいかも、である。いずれにしても、4月のかすみがうらが勝負。
社会のルールは守らなければならない。仕事のルールも、あればそれに従わなければならない。当然である。公のルールとでもいえる。
それらとは別に、人間は無意識に、自分に特有のルールをこしらえがちである。お椀の置き位置、ペンの置き場所、シャツのサイズ、ゴルフのスイング・・・。限りがない。私のルールともいえる。
公と私の中間的なルールもある。優先席付近で携帯の電源は切らねばならない、道は右側を歩かねばならない、電車を降りるときは座席をもとの位置に戻す。これらは、強制ではないから、公のルールではない。といって、私のルールでもない。
いずれにしても、公のルール以外は適当でよい、というのがストレスを軽減させる秘訣らしい。いろんなルールを意識しだすと、人間は必ず他人にもそれを求めてしまう。
求めるが、公のルールではないものを他人に求めても、すべてがかなうとは限らない。かなわない場合はストレスとして残るだけだ。また自分を縛ることにもなる。この点でも、あまりルールにこだわらないほうがよいということだ。