湯西川日記

fbやツイッターで一年サボりましたが、やっぱりブログです。2016年から復活します。ツイッターの長い版みたいな感じです。

引退模様

2012-01-31 20:43:40 | 学習

アルテリーヴォ和歌山の紀州将軍、上赤坂佳孝君が引退を発表した。和歌山のサポの皆さんには、さぞかしショックだろうが、4試合しか行ったことのない分際でおこがましいが、ワシもつらい。

佳孝君は、和歌山市内出身のサッカー少年で、近大和歌山では松尾直人と同級生だ。小柄だが、鍛えられた体でゴールを決めていた。佳孝君がいなかったら、今日のアルテリーヴォ和歌山はないはずである。その輝かしいサッカー歴はwikipediaに譲る。(すまん)

和歌山ではなかなかお目にかかれない早大出身で、テレビに出演した時のしゃべりなど聞いても、才能あふれる人間であることは明らかである。今後、どうされるのかわからないが、地元にいられる様子だから、和歌山を舞台に活躍してもらいたいし、十分やれるはずである。

写真は、三木防災でもらったKINGのサイン入りユニ。いつか指導者として、Jでアルテリーヴォを率いてくれる日を楽しみにしている。永い間ご苦労様でした。


昔の友達

2012-01-30 21:43:42 | 学習

Tは小学校の同級生で、中学校まで一緒。ものすごく仲が良くて、境遇も似ていて、うまがあった。地元にいて、結婚式には来てもらったのだが、いかんせん、それ以来会っていない。

年賀状は毎年やり取りしているし、電話もできるのだが、もう20年近くあっていないわけで、なかなか連絡が取りづらい。きくところによると、まだ独身らしい。全く状況が違ってしまっているので、そのことでも連絡しづらい。社会人になってからの友人と違うところはここである。

実は、父親の葬式の時、さんざん迷ったあげく、連絡しなかった。連絡してもよかったのだが、忙しいこともあって、わざわざ電話する気にもなれなかった。Tに限らず、幼いころの友達で、こういう状態の友人がけっこういる。

このままだと、下手すると一生会えなくなってしまう可能性すらある。何とか連絡しなければいけないのだが、何を話せばよいのか。酒でも飲めればよいのだが、ワシは飲まないし。乗り越えなければならない壁が、そこにはある。


喪明け

2012-01-29 22:35:35 | 学習

秩父の温泉にひとりで浸かっていたら、何だか死んだ人のことばかり考えているのが馬鹿馬鹿しくなった。死んだ人のことを考えるのは、それが父であっても、友人であっても、結局その人と自分とのかかわりを振り返るだけであるから、自分の記憶断片をしつこく手繰り寄せ集めて思い起こすだけのことなのだ。

そんなものは、いくら記憶を掘り起こして思って感傷的になっても、あまり役には立たない。役には立たないどころか、自分を反省しても反省しきれず、暗くなるのと同じだけで、百害あって一利なしである。休むに似たり、というやつである。人間は過去に生きることはできない。同時に将来に生きることもできない。

思えば、子供のころは将来に生きていた時期があった。今からこれをこれだけやって仕込んでおけば、将来すごいことができるはずだと思って、いろんなことをしていたような気がする。その結果がこれである。ここまできて、今度は今度で過去に生きていたら、それこそ、何のために生まれてきたかわからないではないか。

人間は過去に生きることはできないし、将来に生きることもできない。今を生きるしかないのである。昨日のことは終わっているし、明日のことは明日にならなければわからない。昨日を悔やんでもそれを取り戻せるわけでもない。明日をいくら思い心配してもどうにかなるものではない。今日一日をどう生きるか、それだけ考えればよいということである。

父を突然亡くし、約2か月。ようやくに喪が明けた気がする。


秩父

2012-01-28 22:13:22 | 学習

東京に来て10年。初めて秩父に行ってみた。実は先々週、納車して、初めての長距離走である。

目的はここで、秩父にはいっぱい温泉がある。ここは秀逸で、広い露天風呂がうりの単純硫黄泉である。

秩父は寒く、雪がいっぱい残っていて、露天に浸かっていて、少し体を出すとすぐ冷えてしまうのだ。露天風呂だけで1時間はいたと思う。

池は氷が張っているし、

山は日光の当たらない部分はこんなに雪が残っている。

帰りは、しいたけ、まいたけ、しめじ、野菜、つけもの、味噌などを買い込んだ。

秩父。また行きたい。


高槻

2012-01-27 20:53:15 | 学習

なにげに検索していたら、こんな動画があった。

大阪の高槻は長く住んだ町で、とくにここのお寺は心の故郷みたいなところである。いまでもよく泊めていただいている。

桜の咲くころになったら、遊びに行くつもり。


2012-01-26 23:02:30 | 学習

今はもうコンクリートの用水路になってしまったが、小学校までは石垣を積んだ用水路で、初夏のころ、ヘイケボタルが飛んでいた。

父親が、夜、ナイターの後、「おい」なんていって、その用水路にホタルを取りに行ったものだ。ホタルといっても、いっぱい飛んでいるわけではなく、せいぜい2、3匹。ムラサキツユクサに泊まって光っているのをとって、虫かごに入れて持って帰る。

その当時は、まだ、蚊帳を吊っていて、その中にホタルを開け放つ。電気を消して、ホタルが光りながら蚊帳の中を飛ぶ。外では、水田に囲まれているものだから、カエルが合唱している。

父親のいる光景である。こんなのばっかりが最近頭に浮かんでくるのだ。困ったもんである。


父の思い出

2012-01-25 22:26:29 | 学習

たいして、親らしいことは言わなかった父だが、小さいころはよく遊んでくれた。とくに野球はよくやった。道でキャッチボールするのだが、田舎だからボールをはじくと、水田に入ってしまう。田植えのように拾いに行くのが面倒で、狭い庭でやるのだが、ワシがでかくなってくると狭いからいよいよできなくなった。 

ひと工夫して、軟式野球ボールを卓球のピンポンに替えて野球をしたが、これに熱中した。小学校の3~4年くらいだろうか。当時の文集に、「お父さんとピンポン野球をした」などと書いてある。女先生が「ピンポン野球って何?」なんて赤字で書いてあったりする。

ピンポンで投げると、変化球がすごい。グーンと曲がったり落ちたり。曲がるかと思えば直球だったり。狭くても十分楽しめた。すっかり忘れたが、ヒットやアウトのルールを決めて二人で、それこそ、夏など、ばんめし食った後も夜9時過ぎまでやったものである。父は熱中のあまり、庭に大きな電燈を備え付けた。あほである。

FC東京の阿久根社長は、早実、早大の名選手だったが、少年野球の指導で小さいボールを取り入れてミート力を高めさせたそうである。はからずもワシは自然と父とのピンポン野球でそれをやっていた。小さい球だから、大リーグ養成ギブスをつけているようなもので、ふつうのボールだと楽に打てる。曲りなりに大学まで野球できたのは父のおかげである。


父親

2012-01-24 22:34:25 | 学習

最近、電車なんぞでうとうとしていると、頭の中に昔の情景ばかりでてくる。昔の家やら庭やら、子供のころ行った地方とか。蛍を見に行った小川、虫や裏白を取りに出かけた里山、キャッチボールをした空地。親戚の家の大きな庭。正月に一族が30人近く集まった祖父の家。

正月に実家に帰ったばかりだから、ノスタルジーな感情が残っているのかと思いきや、ある時ふと気づいた。死んだ父親の思い出ばかりなのである。父親が死んで、全く泣かず、この世にいなくなったのだなあということしか思わなかったのだが、最近になって、はからずもこんな感じなのだ。とほほの体である。

思えば、子供のころの環境が、今ほとんど現存していない。家はずいぶん変わったし、子供のころ父親と一緒に行った場所も、たとえば、山も小川も庭木もほとんど残っていない。父親が生きている間は、そういうことが、なんとも風情のない程度にしか考えていなかったのだが、父親が死んで、そういう昔の故郷の何もかもがいっぺんに、手の届かない遠くに去ってしまった気がする。

6年前に末期がんで死んだ叔父は、最期は、うわごとで、幼いころの自分に戻って、すでに死んだ家族の名前を、「かあちゃん、とうちゃん」と、傍らにいるかのように呼んでいたそうである。死に際に出てくるような、故郷の光景が誰の心の奥にもあるのだと思う。それも、あっけなく、父親の死とともに一緒に消えてしまったような気がしている。


病院とのつきあい方

2012-01-23 23:05:54 | 学習

父親は享年78歳だった。もう少し長生きしてほしかった。石原都知事は1歳上であんなに元気だし、80、90過ぎてもお元気な方はいくらでもいる。父と彼らの違いはどこにあるのだろう。

いろいろあると思うが、父親の場合、ものすごく衰弱していた。入院していないのに、全体的に老衰に近い状態だった。なぜなんだろう。その答えは、おそらく薬だと思う。薬の量が多かった。

医者に勧められるままに生真面目に朝、昼、晩と間仕切りの入ったプラスチックの容器に入れてせっせと飲み、薬の量が多いことで、加齢とともに体が衰えていった。とくに、他の病気への投薬が原因で、肝臓の数値がみるみる悪くなっていたようだ。

日本の医療は、とくに内科は薬を出すことが仕事で、次から次へと薬を出す。薬を飲ませすぎて肝臓が悪くなったら、また薬を出していたようである。奇怪な話である。

医者を信頼しきって、せっせと病院に通いづめ、いわれるままに薬飲んでも長生きできるとは限らない。この辺、誰かが責任をとってくれるわけでない。自分の健康は自分自身でよく考えたほうがいい。


読書チョイス

2012-01-22 23:56:18 | 学習

けっこう本読む。最近は洋書ばっかり読んでいるが、日本語の本も読む。日本語の本は新しい本を買うことはまずなくて、読み返しばかりである。新しい本も読みたい気がするが、今ある蔵書を全部読み込まないと申し訳ない気がしているのだ。

今ある蔵書を全部完璧に読み込むといっても、実際は、文字通りそれをこなすとすれば一生かかっても困難である。小林秀雄先生の本など、考えるヒントひとつ読んでも絶対完璧には読めないはずである。トルストイは、やっぱり一生かかると思う。

時間がないのだ。朝から晩まで家で読書をできる環境や、教職にいて研究と仕事が同じであるということでない限り、たくさんの本をわがものにするのは難しいと思う。むしろ、これと決めた手持ちの蔵書にチャレンジし続けることことが読書なのだ、という気さえしている。

そんな感じだから、なかなか、新しい本に手が出せない。時間がもったいない。書店の店頭に積まれた、「今、話題の、芥川賞受賞作品」など読んでみたいなどと思わない。思えば、昭和以降の生まれで、ワシが読んだ作家といえば、村上春樹くらいである。時間のフィルタを透過しないと嫌なのだ。