どんこの空(そら)に 。

きっと何かが足りない~それを探す日記~

Golden Days。

2019-12-02 | Sandstorm



昭和の家には匂いがした。
ガキの頃、友達の家に遊びに行くとそれぞれの家にそれぞれの匂いがあった。
それが嗅ぎ慣れない匂いだと、人は不快に感じるものだ。
だから最近は、消臭だの無臭だのが持て囃される。
最近ではわざわざ香を炊いたり香料を使って、リラックス効果だのやる気効果などと吟っている空間もあるが、基本的に衛生的に感じる無臭であるのが一番素晴らしいことのようである。
だがしかし本来、家には家の、工場には工場の匂いはあるはずだ。
自宅でさえ、タンスにはタンスの、茶筒には茶筒の匂いがする。
それは紛れもなく、それそのものの存在感のひとつであろう。
記憶の奥底から呼び覚まされる官能の多くの部分は、匂いであるようにも思う。
故郷の家の匂い、入試の日の教室の匂い、あの日の君の匂い・・・。



現代においてこの世界は、いつしか無味無臭になってしまった。
少なくとも日本、また都会では特に。
感覚としての嗅覚はますます不要なものとなっている。
社会もしかり、経済もしかり。
どんどん効率化が進み、結果だけが価値となり、論理的なAIだけが持て囃される社会。
それを進化というならばもはや止めることはできないだろうが、いかにも味気ない時代になったものだ。
これは自分の考えだか、人間一人一人というのは本来みんな臭いものだと思っている。
ちゃんと考えたら社会も人間も矛盾だらけ。
効率はそんな中で唯一、真っ直ぐに主義主張できる簡単な価値観なのかも知れない。



昭和が良かったなんて言わない。
矛盾を肯定する気もさらさらない。
でもいろんなものを心に抱え込んで、太古の昔から人は生きている。
現代に持て囃される価値観ばかりに目を奪われていると、人間臭さはどんどん失われていくように感じてしまう。
もしかしたら、今この世の中を動かしているような人間が、一番人間臭いのではなかろうか。
そんな風に思う。
人間臭い人は、なぜかいつも魅力的な存在感がある。



今日も無意識のうちに、いろんな匂いが心の奥の官能に刻まれているに違いない。
新しい記憶とともに。
ただ、腐敗臭や刺激臭などあまりに耐え難いものはまったくもって御勘弁願いたいものである。
思い出は美しい方がいい。






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