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官能を辿る。
思い出すのではない。
記憶の中にある映像や言葉や音、感触だけでなく、その過去のその一瞬に、心だか脳だか知らないが、そこに深く刻まれた気分や気持ちや感情を、今現在の自分自身の心に再現させていく。
普段は忘れているが、確実に覚えている官能がある。
数えきれないほどの忘却の彼方に消えていったであろう喪失から逃れ、その心の暗闇のどこかに潜んでいる強い強い感情の化石。
ある日突然、それが何かの拍子で意識の中に表れて、現在の自らの感情を飲み込んでしまうことがある。
高校生の頃。
暑い真夏の朝。
部活の試合会場へ向かう途中の交差点。
太陽、自転車、熱に浮かれた高揚感。
初めて東京で暮らし始めた頃。
寒い冬の日の会社帰り。
立ち寄ったオンボロなラーメン屋のカウンター。
無口なオヤジが、その奥で座っていた。
シンとした店内、美味かったラーメン、一人きりの夜。
まだ小さかった頃。
母の腰にしがみついて歩く自分。
幼稚園のバス。
明日からあれに乗るのか、と母に尋ねた。
犬に顔を舐められて泣き出したあの日。
頼りない旅立ち、母の存在、包まれている安心感。
カナダ。
遮るものが何もない光の世界。
空と太陽。
目がやられるほどの照り返しの白銀。
頬に刺す冷たい風。
孤独、連帯、限りなく続いてゆく時間の感覚。
3位決定戦のフィールド。
灼熱の照り返す人工芝。
朦朧と薄れる意識。
ベンチへと引き返すときの交錯する感情。
自信と誇り、ふらつく足元、ふがいなさ。
君といた夏。
遠出。
青い空。
胸元。
目が合ったときの表情。
頬が熱くなり照れかくし。
その想いとは裏腹な感情。
言葉、しぐさ、リアクション。
そして想い。
今でも込み上げてくる身体中を包み込む感覚。
どれも遥か時間の彼方の出来事なのに、目を閉じれば昨日のように官能が溢れてくる。
不思議なもので、その前後の記憶は全くと言っていいほど綺麗さっぱり消え失せているのに、その刻まれた官能は何度も何度も波のようにリフレインして押し寄せる。
脳という記憶媒体は、デジタルな優秀さは持ち合わせていない。
言葉や数字などの記号はなく、そこにぼんやりと存在するのみだ。
時間とともに少しずつ少しずつその輪郭を削ぎ落としながら。
そこに大切なものだけを静かに自らの中に沈澱させるように。
今は一人、車の中。
自ら感じている無意識の中の感情。
近い将来。
あるいは遠い未来。
あるほんの一コマの記憶を引き連れて、いつか辿るのであろうか。
懐かしい官能として。
嬉しさや、怒りや。
悲しみや、楽しさや。
雪のように、だんだんと解けてゆく。
あきらめや、意地や。
気持ち良さや、虚しさや。
そして約束や。
今の僕や、
あの日の君や。
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リフレインする。
そしてまた、流れてゆく。