つらねのため息

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

戦前からの電力会社、住友共同電力と電気を自給自足していた村

2014-06-13 00:26:00 | エネルギー
愛媛県新居浜市に日本有数の歴史を誇る電力会社、住友共同電力がある。

会社概要|住友共同電力株式会社

上記ページによると、同社は西条市・新居浜市の住友グループ系企業、住友化学(株)、住友金属鉱山(株)、住友重機械工業(株)など住友系企業10数社を中心に電力・蒸気を供給している会社である。
 同社の歴史は1919(大正8)年、土佐吉野川水力電気株式会社の設立に遡る。どういうわけか電気供給の事業開始は少し遅れたようで、1927年電気供給事業を開始(この間、1923年に日本最古の電力会社、黒部川電力が設立され事業を開始している)、1934年に四国中央電力株式会社に、1943年に現在の住友共同電力株式会社に改称したものの、戦時中の国策統合を潜り抜け、いまに至っている。

主要供給先|住友共同電力株式会社

ところで上記ページには、「電力供給先一覧」が挙げられているが、住友系の企業や四国電力に並んで「新居浜市別子山地区需要家」という記述がある。

別子山エリア(愛媛県新居浜市)|住友共同電力株式会社

同社の発電施設を紹介したこちらのページでは「旧別子山村の森林組合から譲り受けたマイクロ水力発電所」として「別子山発電所」が、また、同じく「旧別子山村の森林組合から譲り受けた小水力発電所」として「小美野発電所」が紹介されている。「小美野発電所」では、「別子ダム下流の銅山川の水を取水し、最大1,000kWの発電を行」っているうえ、「近隣集落への配電線をもち、地域の電源として貴重な水資源を活用してい」るという。

これらの記述から考えると、別子山村では、村の森林組合で自家発電した電気が利用されていて、それが住友共同電力に移管されたということのようである。すなわち、住友共同電力に譲渡されるまで、協同組合による電力の自給自足が実現されていたということではないだろうか。しかも、上記の会社概要によると、「特定電気事業による新居浜市別子山地区への電気供給開始」は2003年となっており、そんなに昔ではない(別子山村は2003年に新居浜市と合併しており、後述のとおり、電気事業の移管は、この合併が契機となっている)。

現行の電気事業制度について - 経済産業省(PDF)

上記リンク先の資料によると、特定電気事業とは、特定のエリア(供給地点)の需要に対して電気を供給する事業のことである。この事業を行う者を特定電気事業者といい、特定電気事業者は、許可を受けた供給地点において、自ら送配電ネットワークを保有し当該供給地点における電力需要に対して供給する義務を負うほか、退出規制の対象となるなど、基本的に一般電気事業者と同様の規制に服しているという。
 なぜ四国電力による一般供給ではなく住友共同電力による特定電気事業という形をとったのかは興味深い。

Wikipediaの別子山村のページに「電気を自給自足していた村」という記述があったので最後にその記述を引用しておく(引用元の記述は2014年6月13日現在)。

――――――以下引用――――――

別子山村では別子山村森林組合(組合長・和田秋廣(=村長)、組合員約100)が村内全域に電気を供給していた。水力発電所によるクリーンエネルギーで、世帯が極めて少ないとはいえ、全国でも珍しい取組であった。しかしながら、編入合併による閉村とともに同組合も解散し、新居浜にある住友グループの電力会社である住友共同電力(本社・新居浜市)に移管した。
黒字体質は保っていたものの、水力発電所の設置は1957年と古く、設備の更新に億単位の資金が必要と見込まれたが、人口が少ないうえ、「村」の消滅で資金面でも後ろ盾がなくなったための処置である。なお、組合では村内唯一のガソリンスタンドも経営していたがこちらは、伊予三島市(現:四国中央市)の業者に譲渡した。

※2014年6月13日19時24分、ご指摘を受けて記事の一部を修正しました。

東北における北海道電灯

2014-06-11 22:59:00 | エネルギー
『東北地方電気事業史』(1960年、東北電力編集・発行)をパラパラと見ていたのだが「第二章 東北7県下電気事業発達史」の「第3節 秋田県の部」に「北海道電灯―大日本電力株式会社」という項目があるのをふと見つけた。「秋田になぜ『北海道』電灯!?」と疑問をもって読み進めてみたら、なかなか興味深かった(以下、出所は同書143-144頁)。

北海道を事業の発祥地とする北海道電灯は秋田県へ進出、1925(大正14)年12月に秋田電気株式会社の事業を譲り受け、1926年9月に秋田水力電気を合併、12月には秋田木材株式会社の電気事業部門を譲り受け、秋田市に秋田事務所を設置、秋田市を中心とする海岸一帯を事業地とした。
 さらに1928(昭和3)年11月には最上川電気会社、1929年7月には米代川水電会社を合併し山形県に進出。1936年6月には福島県の大事業者、東部電力会社を合併し、福島県に地盤を確保した。
 その後も電力統制の国策も足がかりとしつつ合併を繰り返し、秋田、山形、福島の3県に事業地を拡大したが1941(昭和16)年の配電統制令により設立された東北配電の設立に参加し、同社に東北地方の電気事業設備を出資した。

渋沢栄一記念財団 渋沢栄一 / 渋沢栄一関連会社社名変遷図 / 電気 D 〔商工業:電力〕

『東北地方電気事業史』では時期が不明だが上記のページによると、この間、1934(昭和9)年に「北海道電灯」から「大日本電力」に社名を変更している。

『大日本電力二十年史』 【大日本電力, 1940】 - 実業史研究情報センター・ブログ 「情報の扉の、そのまた向こう」

また、同社の20年史を紹介している上記のページによると同社は「1887年(明治20)静岡創業の富士製紙」の「電気部が1919年(大正8)に分離独立、富士電気とな」ったもの。「30以上の同業会社を併合しつつ、津軽海峡を越えて秋田地方、郡山水戸地方へと進出、それにつれて社名も北海道電灯、大日本電力と変遷」したとある。

『東北地方電気事業史』では東北地方についてしか触れられていないが水戸方面まで進出していたというのは、正直驚く。完全に自由競争のもとにあった戦前の電気事業の一端を垣間見ることができた。

沿革 | 東部ガスについて | 東部ガス

ちなみに、この大日本電力のガス部門が分離独立した旭瓦斯株式会社は「東部ガス」という名で健在。上記のページによると、ガス部門の歴史は1911(明治44)年5月26日秋田市に創立された秋田瓦斯株式会社に遡る。1926(大正15)年5月、秋田瓦斯株式会社は大日本電力株式会社の傘下に入り、1936年5月東部電力株式会社の合併に伴い、郡山、平の両地域を供給区域に加えた。
 1937(昭和12)年5月1日、大日本電力株式会社からガス部門が分離し、旭瓦斯株式会社として独立。その後、1943年7月、茨城瓦斯株式会社を合併して水戸市、土浦市を供給区域に加え、1946年1月、社名を東北瓦斯株式会社と変更、さらに1948年12月、社名を現在の東部瓦斯株式会社に改称した。1982(昭和57)年4月からは守谷町(現守谷市)で供給を開始し、2001年4月1日には秋田市ガス局を譲り受けた。
 現在同社は、秋田県秋田市、福島県郡山市、いわき市、茨城県水戸市、土浦市、かすみがうら市、石岡市、守谷市、つくばみらい市、および常総市等の東北・関東両地方の3県にまたがる11市2町において、都市ガスを供給している。

当たり前と言えば当たり前だが、見事に大日本電力の供給区域と重なっている。

新潟県議会電気事業県営決議

2014-04-29 00:47:00 | エネルギー
新潟県議会の会議録を見てみたところ、1948年3月の電気事業県営決議の議案を見つけた。

新潟県議会会議録:昭和23年  3月定例会 本会議-03月30日-一般質問-06号

――――――――以下引用――――――――

    電氣事業縣営決議案

 日本再建の基底は電源の豊富なる需給にあることは論をまたぬ処であるが、今回集中排除法案の発動に伴い関係会社の解体が予想されている。
 新潟縣議会は電氣事業の大いなる公共性に鑑み事態に応じ之を縣営として民主的な運営をなすことは單に縣民の福利增進に貢献するのみならず、逼迫せる縣財政安定の一環として強力に推進せられなければならない。よつて新潟縣議会は縣当局が最善の方法を講じ速かに電氣主業の縣営に関し具体的対策を樹立せられんことを希望する。
 右決議する。
  昭和23年3月30日
       新潟縣議会議長 兒 玉 龍 太 郎

――――――――引用終わり――――――――

[電力 首都へ 中編・戦後再編](9)信越独立へ県議会決議

上記、新潟日報の記事によるとこの決議が伏線にひとつとなり、新潟県は3年後の1950年、電力の戦時統制からの再編成が検討される中で新潟県と福島県西部、長野県北部を信越地区として独立させるGHQの10分割案を歓迎した。新潟県議会では2月22日、臨時会が急きょ開かれ、電気事業再編成をめぐり二つの決議案が可決された。それが「電気事業再編に関する決議」と「連合軍最高司令官に対する感謝決議」である。

以下、引用はいずれも下記リンク先より。

新潟県議会会議録:昭和25年  2月臨時会 本会議-02月22日-開会、議案説明、討論、採決、閉会-01号

――――――――以下引用――――――――

    電氣事業再編成に関する決議案

 わが国電氣事業の再編成に関しては、電氣事業再編成審議会の答申になる電氣融通会社の設立を條件とする9分割案、電氣事業再編成審議会長たる松永氏の電力融通会社を伴わない9分割案、及び連合軍総司令部によつて示された10分割案等があるが、わが新潟縣においては、連合軍総司令部の期待する電力融通会社の設立を條件としない10分割案により、北信越地区に独立した会社の設置をみることが、本縣の産業振興延いては日本産業振展のため最も有利なることを確認し、その実現を期する。
右決議する。
 昭和25年2月22日
          新潟縣議会議長  兒 玉 龍太郎

――――――――(中略)――――――――

連合軍最高司令官に対する感謝決議案

    感謝決議案
 このたび電氣事業の再編成に当り、連合軍総司令部がわが政府に示唆せられた10分割案は、地方産業の振興と密接の関係を有する電氣事業の民主的運営を確保し、適正規模による独立採算制の採用によつて電力料金の公平が期し得られるので、発電縣であるわが新潟縣民は貴司令部案の速かなる実現を要望するものであります。
なお、わが縣民はわが縣だけの利己主義によつて当面必要な電力の融通を阻害するものではなく、只見川その他なお多数の有力なる水力電源の開発を促進し、將來適正なる電力の配分と料金の規正を期待し努力せんとするものでありまして、貴司令部当局の10分割案に対しては、縣民一同の眞に感謝に堪えないところであります。ここに謹しんで、240万縣民を代表する新潟縣議会の名において、貴司令部当局に対し、満腔の謝意と敬意を表します。
 1950年2月22日
          新潟縣議会議長  兒 玉 龍太郎
 連合軍最高司令官
  ダグラス、A、マツクアーサー元帥閣下

――――――――引用終わり――――――――

「マツクアーサー元帥閣下」への感謝決議は日付が西暦表記になっているところなどもなかなか興味深いところがあるが、塚野清一の趣旨説明の中の以下の一節は電力のあり方を考える上で、いまでも色々と考えさせられるモノがある。

――――――――以下引用――――――――

 10分割案に対しましては、いろいろ反対の声もあるのでありまするが、新潟縣の現状はどうでございましようか。全国有数の発電縣でありながら、高い料金と少い電力割当量に、今までは泣き寢入りをいたして來ているのであります。われわれ電力小委員会といたしましても、連年農事用電力や工業用電力の割当量の確保と、電力料金の引下げ等に関しまして陳情これ努めながらも、何らわが新潟縣は、発電縣としての恩典に浴することのでき得なかつたのが、実情であるのであります。
 戰前本縣に各種重工業が発達したゆえんのものも、帰するところは安い電力料金で、豊富に電力が使用できたという立地條件が備わつていたらばこそであると思うのであります。それが戰時中のゆがめられたるところの統制によつて、この恩惠はまつたく一掃されたのでありまして、本縣といたしましてはこの運動は一種の復元運動にひとしきものであるのでございます。
 何とぞ、10分割案が本縣の將來を考えまして、産業振興上ぜひこれを支持しなければならない案であるという点を、満場の諸君に御承解願いまして、満場一致御決議あらんことを希望いたす次第であります。

――――――――引用終わり――――――――

結果として10分割案は実現されず、電力再編成は9分割案が実現し、沖縄電力を除く現在の9電力会社が成立した。また、大消費地の電力会社が地方に発電所を持つことになり、新潟にしても、福島にしても、その後も「発電縣としての恩典に浴することのでき得なかつた」ことは歴史が教えてくれるところである。

赤穂騒擾事件にエネルギーの自治を学ぶ

2014-02-21 01:08:00 | エネルギー
太野祺郎『百年の燈火―信州伊那谷より南三陸へ』(2013年、展望社)

赤穂騒擾事件をご存じだろうか。明治44年、長野県上伊那郡赤穂(あかほ)村(現駒ヶ根市)で村営電気事業の構想が持ち上がった。当時の電燈会社に公益企業という認識は乏しく、採算の見込めない場所への電力は供給されない。そこで地元で水力発電を起こし、その電力をもって村内全戸に遍く電燈を点けようと当時の村長は考えた。また、それによって生じる電気代収入を村財政に繰り入れ活用することも考えられた。
 しかし、上下伊那郡を供給区域に繰り入れようとする長野電燈会社は、当時の政府与党立憲政友会とのつながりも利用してこの動きを封じにかかる。赤穂村の電燈事業村営の出願は却下され、先願の長野電燈会社に電燈事業の許可が下りた。
 村民はあくまで村営を実現すべく長野電燈不点火を決議していたが、一部の者が村民一致の結束を破って電燈会社から電気を引いてしまった。村民は電燈会社になびいた者を裏切り者とみなし、大正2年8月1日、その住宅を損壊し、主導したものの家に放火してしまう。警官が出動し抜剣して威圧にかかったが、逆に民衆に警察署まで押し戻され警察署のガラス戸も投石を受けて破壊された。結果的に多数の村人が有罪となったこの事件を、赤穂騒擾事件という。

本書はこの赤穂騒擾事件に取材し、フィクションを交えながら、地域におけるエネルギーのあり方を問う。時代がうつり、スケールが変わったとしても、長野電燈という電力資本が政治権力(立憲政友会)と結びつきながら、赤穂村民のエネルギーの自治を抑えつけようとした構図は現在の原子力村をめぐるそれと変わらないという指摘は実に鋭い。本書に引用されている様々な資料に載る赤穂村民の訴えは、まさにエネルギーの問題が自治の問題であることを明らかにしている。それが100年も前に、ここまで明快に訴えられていたことに驚かざるを得ない。

赤穂村営電気計画は頓挫せざるを得なかったが、町村が自治力を備えることが重要だと認識した赤穂村長・福沢泰江は、大正9 年には全国町村会の発起人となり、その設立に尽力している。

伊那谷では日本最初の組合営による電気事業者、龍丘電気利用組合などエネルギー自治の様々な試みが積み重ねられ、それが現在につながっているのではないだろうか。赤穂村の事例も、いまという時代だからこそ、その意義と先見性を再確認できる。エネルギー自治の重要性と、先人の自治への見識の高さを、改めて気付かせてくれる一冊。