いまの『東京新聞』は桐生悠々がいた頃の『信濃毎日新聞』のようだというwebでの書き込みを見て興味がわき、井出孫六『抵抗の新聞人 桐生悠々』(1980年、岩波新書)を読んでみた。
桐生悠々は1873年、旧加賀藩の下級藩士の家に生まれた。旧制四高、東京帝大法科を卒業後、いくつかの職業を移り、1902年、『下野新聞』の主筆となる。その後、『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』などを経て、1910年に『信濃毎日新聞』主筆に就任。明治天皇の死に際しての乃木希典陸軍大将の殉死を批判した「陋習打破論」が評判を呼ぶ。しかし、その後、紙面で政友会批判を繰り広げたことが、政友会の代議士でもあった信濃毎日新聞社長の小坂順造との対立を招き退社、名古屋の『新愛知新聞』の主筆へと転じる。
大正デモクラシーの中、悠々は、同じく政友会系であった『新愛知』と憲政会系の『名古屋新聞』との論争の中に身を置いたが1924年に退社、1928年に『信濃毎日』の主筆に復帰する。しかし、1933年8月、折から東京で行われた防空演習を批判した社説「関東防空大演習を嗤ふ」が在郷軍人の組織、郷軍同志会などの怒りを買った。信濃毎日新聞は抵抗したものの、不買運動も辞さないとする圧力を受け、悠々の退社を余儀なくされた。
信濃毎日新聞退社後、悠々は名古屋に戻り、新着洋書の紹介や悠々の筆による時事論などを掲載した個人雑誌『他山の石』を発行する。たび重なる発禁処分に耐えながら軍部批判を続けたが、1941年9月10日死去、「小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」という挨拶をのこして『他山の石』も廃刊した。
悠々は最初の信濃毎日主筆時代、大逆事件の報道を禁止した当局を厳しく批判し、新名古屋では米騒動の報道を禁じた寺内内閣の打倒を呼びかけるなど、その思想はリベラルな自由主義であった。その反軍的な姿勢は戦争の足音が近づく当時においては際立っている。社説「関東防空大演習を嗤ふ」も、そうした悠々の立ち位置から見れば自然なものとすらいえるかもしれない。この社説は防空演習が想定したような東京上空で空戦があるような事態があれば、すでに東京には空襲が行われていることになってしまい、木造家屋の多い東京市は焦土と化すであろうこと、市民の狼狽を呼び起こし阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東大震災と同様の地獄が繰り返されるであろうことなどを12年後の東京大空襲の事態を的確に予想し、空襲に先立って敵を撃退することこそが重要であり、防空演習が「さほど役立たないであろうこと」を予想するものであった。その全文は下記リンク先から読めるが、その筆致は理知的、論理的であり、当時においてもそれほど大きな問題であったとは思われない。しかしその題名のうち「嗤ふ」の字が特に軍人の怒りを買ったと言われる。井出孫六は例えば「『関東防空大演習を評す』とでもしておけば事は荒立たずにすんだかもしれない」が「嗤う」という表現は軍部の台頭によって言論の自由が失われて行く当時にあって悠々の「主張そのものであった」と指摘している。
桐生悠々 関東防空大演習を嗤う(青空文庫)
悠々は軍部の台頭によって社会の自由が失われて行くなかで、それに抵抗した反骨のジャーナリストであった。この記事の表題にも掲げた悠々の句「蟋蟀は鳴き続けたり嵐の夜」はまさにその姿勢を表したものと言える。
そして、興味深いのは悠々のこうした姿勢を支えた人たちが多くいたことである。悠々は信濃毎日を追われた後個人雑誌『他山の石』を発行しているが、その支援者には信濃毎日新聞社長の小坂順造、新愛知時代の悠々の論敵、名古屋新聞の与良松三郎、第六代住友総理事小倉正恒、「電力王」松永安左エ門、名古屋医科大学の教授で西園寺公望の主治医でもあった勝沼精蔵、安宅産業の創設者であった安宅弥吉、第一法規出版創業者で長野商工会議所会頭・衆議院議員などを務めた田中弥助(美穂)のほか、尾崎行雄、芦田均、風見章、福沢桃介、岩波茂雄といった人々もいる。特に、名古屋を中心に多くの財界人が支援者に名を連ねているのは時代背景を考え合わせると興味深い。
悠々は晩年、信濃毎日時代を振り返り、「信州は言論の国であった。信州人は人の知る如く理知に富んだ、極めて聡明な民だから、この民の棲んでいる信州が言論の国であるに不思議はない。従って信州は私たち言論者即ち論説記者に取っては、殆ど理想的の国であった。私はここに「あった」と言って「ある」とは言わない。そしてそう言われ得なくなったことを悲しむもの、然り衷心より悲しむものである」と述べている。
「日本は言論の国であった」ということがないように、この抵抗の新聞人の伝記をその命日に紹介したい。
桐生悠々は1873年、旧加賀藩の下級藩士の家に生まれた。旧制四高、東京帝大法科を卒業後、いくつかの職業を移り、1902年、『下野新聞』の主筆となる。その後、『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』などを経て、1910年に『信濃毎日新聞』主筆に就任。明治天皇の死に際しての乃木希典陸軍大将の殉死を批判した「陋習打破論」が評判を呼ぶ。しかし、その後、紙面で政友会批判を繰り広げたことが、政友会の代議士でもあった信濃毎日新聞社長の小坂順造との対立を招き退社、名古屋の『新愛知新聞』の主筆へと転じる。
大正デモクラシーの中、悠々は、同じく政友会系であった『新愛知』と憲政会系の『名古屋新聞』との論争の中に身を置いたが1924年に退社、1928年に『信濃毎日』の主筆に復帰する。しかし、1933年8月、折から東京で行われた防空演習を批判した社説「関東防空大演習を嗤ふ」が在郷軍人の組織、郷軍同志会などの怒りを買った。信濃毎日新聞は抵抗したものの、不買運動も辞さないとする圧力を受け、悠々の退社を余儀なくされた。
信濃毎日新聞退社後、悠々は名古屋に戻り、新着洋書の紹介や悠々の筆による時事論などを掲載した個人雑誌『他山の石』を発行する。たび重なる発禁処分に耐えながら軍部批判を続けたが、1941年9月10日死去、「小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」という挨拶をのこして『他山の石』も廃刊した。
悠々は最初の信濃毎日主筆時代、大逆事件の報道を禁止した当局を厳しく批判し、新名古屋では米騒動の報道を禁じた寺内内閣の打倒を呼びかけるなど、その思想はリベラルな自由主義であった。その反軍的な姿勢は戦争の足音が近づく当時においては際立っている。社説「関東防空大演習を嗤ふ」も、そうした悠々の立ち位置から見れば自然なものとすらいえるかもしれない。この社説は防空演習が想定したような東京上空で空戦があるような事態があれば、すでに東京には空襲が行われていることになってしまい、木造家屋の多い東京市は焦土と化すであろうこと、市民の狼狽を呼び起こし阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東大震災と同様の地獄が繰り返されるであろうことなどを12年後の東京大空襲の事態を的確に予想し、空襲に先立って敵を撃退することこそが重要であり、防空演習が「さほど役立たないであろうこと」を予想するものであった。その全文は下記リンク先から読めるが、その筆致は理知的、論理的であり、当時においてもそれほど大きな問題であったとは思われない。しかしその題名のうち「嗤ふ」の字が特に軍人の怒りを買ったと言われる。井出孫六は例えば「『関東防空大演習を評す』とでもしておけば事は荒立たずにすんだかもしれない」が「嗤う」という表現は軍部の台頭によって言論の自由が失われて行く当時にあって悠々の「主張そのものであった」と指摘している。
桐生悠々 関東防空大演習を嗤う(青空文庫)
悠々は軍部の台頭によって社会の自由が失われて行くなかで、それに抵抗した反骨のジャーナリストであった。この記事の表題にも掲げた悠々の句「蟋蟀は鳴き続けたり嵐の夜」はまさにその姿勢を表したものと言える。
そして、興味深いのは悠々のこうした姿勢を支えた人たちが多くいたことである。悠々は信濃毎日を追われた後個人雑誌『他山の石』を発行しているが、その支援者には信濃毎日新聞社長の小坂順造、新愛知時代の悠々の論敵、名古屋新聞の与良松三郎、第六代住友総理事小倉正恒、「電力王」松永安左エ門、名古屋医科大学の教授で西園寺公望の主治医でもあった勝沼精蔵、安宅産業の創設者であった安宅弥吉、第一法規出版創業者で長野商工会議所会頭・衆議院議員などを務めた田中弥助(美穂)のほか、尾崎行雄、芦田均、風見章、福沢桃介、岩波茂雄といった人々もいる。特に、名古屋を中心に多くの財界人が支援者に名を連ねているのは時代背景を考え合わせると興味深い。
悠々は晩年、信濃毎日時代を振り返り、「信州は言論の国であった。信州人は人の知る如く理知に富んだ、極めて聡明な民だから、この民の棲んでいる信州が言論の国であるに不思議はない。従って信州は私たち言論者即ち論説記者に取っては、殆ど理想的の国であった。私はここに「あった」と言って「ある」とは言わない。そしてそう言われ得なくなったことを悲しむもの、然り衷心より悲しむものである」と述べている。
「日本は言論の国であった」ということがないように、この抵抗の新聞人の伝記をその命日に紹介したい。