つらねのため息

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

『独仏関係史』と「セーヌのカフェ・テラス」

2024-11-19 00:55:16 | 読書

川嶋周一『独仏関係史』(2024年9月、中公新書)読了。

宿敵関係にあったドイツ、フランス両国がなぜ和解したのか。ヨーロッパ、そして国際関係の中の両国が置かれた状況を捉えつつも、両国の政治指導者が内外の政治情勢のなかでどのような判断や駆け引きを行いながら協調関係を築いていったのかを丁寧に紐解いた好著。国際関係史の書籍でありながら、民間レベルの動きなどにページを割いている点も好印象。

やはり読んでいて感じるのはド・ゴール=アデナウアー期の重要性であり、特にド・ゴールはやはり印象的だ。ド・ゴールというとフランスの栄光を追い求めた政治家という印象だが、本書を読むとそれ以上に様々な側面が見えてくるように感じる。

一方で、本書を読んでいると、あくまで「独仏関係史」だからなのかもしれないが、コールやメルケルの時代の印象はむしろ薄く見えるように感じる。冷戦という枠にはめ込まれた中での50年代、60年代の両国の動きと、そういった大きな枠組みがなくなった現代では、両国関係が持つ意味も大きく変わってくるのであろう。それを象徴的に表しているのがロシアによるウクライナ侵攻以後の国際情勢の中での両国なのかもしれない。

ところで、本書を読んでいて、そのド・ゴールの存在感故かポール・マッカートニー&ウイングスの「セーヌのカフェ・テラス」を想い起こした。1978年3月にリリースされたウイングスのアルバム『ロンドン・タウン』に収録された同曲はセーヌ左岸のカフェ周辺の風景を切り取った佳曲だが、フランス人の小さな人混みがテレビ屋の前にできているかと思えば、シャルル・ド・ゴール(ポールは当然英語で歌っているので「チャールズ・ド・ゴール」)が演説するのを見ていたり、英語を話す人が、ドイツビールを飲みながら大声で話していたりと、トランスナショナルな情景が描かれている(そもそも『ロンドン・タウン』の2曲目が「セーヌのカフェ・テラス」というのも意味ありげだ)。そういえばイギリスのEC加盟は1973年だ。まさに本書に出てくるような独仏関係史をドーバー海峡の反対側から見ていたポールも歴史の中にいたのだなということをなんとなく思った。

ところで、この曲のタイトル、特にセーヌ川とも言っていない「Cafe on the Left Bank」という原題はやはり秀逸で「セーヌのカフェ・テラス」はちょっと微妙な邦題だと思う。


山内栄治『流氷のかんざし』

2024-11-10 00:28:00 | 読書




先日、札幌出張の際に古書店に立ち寄って購入した山内栄治『流氷のかんざし』(1995年、北海道新聞社)を読了。同じ著者の『雨花台の石』と迷って、装丁が気に入ってこちらを購入した。一言で言えば、良質なエッセイ集。1990年前後という(社会に豊かさと希望がある)時代背景もあるのだろうが、札幌、北海道という土地に根差しながら、社会の動きに目を配りつつも、様々な人との出会いや身近な出来事を良心的に描写した作品集である。

著者の山内栄治は1915年生まれ。労働運動など社会運動に携わるなかで、文芸活動にも深くかかわり、北海道労働文化協会の会長などを務めた。

生協運動にもかかわり市民生協(現在のコープさっぽろ)顧問として、北海道生協連の『北海道生協運動史』の編纂にも携わっている(明示はされていないが戦前編の執筆を担当したと思われる)。栗山町で戦前の消費組合運動に関わっており、『民衆の光と影-私の昭和史』(1987年、三一書房)はその栗山消費組合の貴重な記録でもある(もちろん、それだけでなく特高警察の監視の中で、社会運動や文芸活動に一人の青年が取り組んだ記録としてとても興味深い一冊である)。同書117頁には栗山消費組合のCO-OPマークが掲載されているが、関東消費組合連盟のそれとほぼ同じであり、関東消費組合連盟-日本消費組合連盟という中央の消費組合運動の流れが北海道にもおよんでいたことを確認することができる。


『新居格随筆集 散歩者の言葉』

2024-06-26 22:54:24 | 読書

荻原魚雷編『新居格随筆集 散歩者の言葉』(2023年、虹霓社)読了。80年以上前の文章とは思えない、親しみやすく温かみのある文章で、良い意味で力が入っていないというか、肩の力が抜けた感じのとても読みやすいエッセイ集だった。

戦後、新居格と一緒に生協運動に取り組んだ大沼渉が新居の字について「彼の人特有の丸い文字」というような表現をしていたが(記憶で書いているので少し不確かだが)、まさにそんな丸文字で書かれたのではないかなというのが目に浮かぶような、人柄がにじ目出てくるような文章がとても心地よい。

この随筆集に収められた作品群が発表された時期は日本が戦争に向かい、突入していった時期に重なる。はじめは昭和モダンの空気を感じさせるような雰囲気だったものが、徐々に不自由になっていくのが新居の生活を描いた文章の中からも伝わってくる。逆に言えば、その時代にそれまでと変わらない筆致で市井の一市民の「生活」を書き記していったのは新居なりの時代への抵抗だったのかもしれない。

「小さな世界」という掌編を読んでいたら「こゝまで書いて来たとき、(消費)組合の配給者が来た」というフレーズが出てきて、昨今のオンライン会議の途中に宅配などの対応で中断するのと同じようなシーンに思えて、思わず笑ってしまったのだが、そんな普通の生活の日常のひとコマが何より大切なのだということを改めて感じさせてくれる一冊。


リシャルド・カプシチンスキ『帝国』

2024-04-25 23:23:49 | 読書

先日、某所で飲み会に参加した際、同席した方が熱心に推していたのがリシャルド・カプシチンスキだった。

彼女の一押しは河出書房新社の「世界文学全集」に入っている『黒檀』のようだったが、あいにく同書は現時点では入手が難しい。ひとまず、みすず書房から新版が出た『帝国』を入手した。

本書(リシャルド・カプシチンスキ、工藤幸雄訳『帝国【新版】ロシア・辺境への旅』2024年、みすず書房)はポーランド人ジャーナリストである著者が旅し、接した「帝国」ロシアについての紀行である。1939年、幼少時に旧ポーランド領ピンスクに侵攻してきたソ軍の記憶から始まり、1958年のシベリア横断の旅、1960年代のソ連邦の南部諸国の旅などを前に置きつつ、崩壊前後のソ連邦内の旅行報告がその中心である。

本書の中心となる1989年から91年という時期は言うまでもなく、ソ連崩壊という激動の時期であったが、本書が読む人を引き付けるのは、そのような大文字の政治を踏まえながらも脇において、ソ連邦内各地の市井の人々の暮らしやその表情が丹念に描いているからであろう。

ソ連のポーランド侵攻を現地で生活する少年の目から描いた冒頭の「ピンスク、1939年」から非常に引き込まれるが、ソ連時代の中央アジア歴訪の記録である「南の国々、1967年」も貴重かつ、美しいとすら思えるルポルタージュだ。

私たちがイメージするロシアらしさという点では、ペレストロイカ期のストライキまでも起こるラーゲリの街の様子を描いた「ヴォルクターは火に凍える」も読ませるし、「コルィマーは霧また霧」からはシベリアのラーゲリの街の歴史と状況が読み取れる。その前にヤクーツクの街での一人の賢い少女との邂逅をスケッチした「水たまりを跳び越えながら」も印象深い小品だ。

現在の情勢との関係ではウクライナの旅を描いた「ドロホビチの町のポモナ」はドネツクやオデーサ、リヴィウという最近私たちが急になじみ深くなった街の1990年前後の表情が垣間見えて興味深い。ウクライナに対する「帝国」ロシアの意識がどういうものなのかも、ある意味で率直に記述されている(筆者がポーランド人であることも影響しているのだろう)。

ナゴルノ・カラバフ潜入記である「罠」も、それだけで冒険小説さながらの一気に読ませる文章だが、登場するアルメニアの人々の発言一つひとつが今となっては興味深いし、そこにのぞく「ヨーロッパ」意識も考えさせられるテーマだ。

残念ながら多くの人が直面せざるを得なくなった「帝国」ロシアを考えるヒントを多く与えてくれる、示唆深い紀行文学といえる。






長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本1918-1920』

2023-08-28 01:31:51 | 読書

長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本1918-1920』(2023年、教育評論社)

チェコスロヴァキア、もはや存在しないこの国が誕生する最中の1918年から1920年の2年間、それはこの国と日本との関係が一番近かった2年間でもあった。本書は、建国過程にあった中欧の小国と当時の日本との関係を、一次史料に丹念にあたりながら、禁欲的でありながら丁寧な筆致で描き出した一冊である。

 

この時期、両国関係が非常に近しいものだった理由は本書のタイトルにある「チェコスロヴァキア軍団」の存在にある。後のチェコスロヴァキアとなる地域は長くオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあった。第一次世界大戦の勃発後、オーストリア=ハンガリーの兵士として徴兵されたこの地域の人々は、ハプスブルクのために戦うことを嫌いロシア軍に投降、この投降した兵士らによってつくられたのがチェコスロヴァキア軍団であった。ところがチェコスロヴァキア軍団の命運はロシア革命によって一変する。行き場を失ったチェコスロヴァキア軍団を極東経由で「救出」する構想が協商国側を中心に持ち上がる。そこに積極的に関与したのが日本であった。

日本史においてシベリア出兵と称されるこの出来事は、第一次世界大戦とロシア革命のどさくさにまぎれた日本による大陸進出の試みと言えるが、それが実質上はともかく、「チェコスロヴァキア軍団救出」を名目としていた以上、両国間、あるいはそこに住む人同士の間に様々な出来事を引き起こしている。

チェコスロヴァキア軍団の成り立ちや、その世界史の中の位置、各国のかかわりなどについては林忠行『チェコスロヴァキア軍団―ある義勇軍をめぐる世界史』(2021年、岩波書店)という良書がすでに存在するが、本書は同じくチェコスロヴァキア軍団を中心的テーマに置きつつも、そのような世界史的な議論ではなく、そうした日本との関係の中で生じた様々な出来事を積みかさねながら、歴史の一側面を描き出している。

 

本書のおもろしさはその「周辺性」とでもいうべきものにある。あるいは慎ましさとでもいうべきであろうか。日本史においてシベリア出兵は重要な出来事であるが、それは上述したような大陸進出(とその後の破局的なアジア=太平洋戦争)の流れの中に位置づいて理解されるからこそであって「名目上の理由」に過ぎなかった「チェコスロヴァキア軍団」との関係は周辺的なテーマとならざるを得ない。同様に、チェコスロヴァキアの歴史においてその独立過程のなかでのチェコスロヴァキア軍団は大きな位置を占めるのであろうが、独立プロセスのなかではむしろ欧米各国との関係が重視されるのであって、地理的にも離れた日本との関係が大きなテーマ性を持ち得るとは考えにくい。このように二重の意味で周辺的な位置づけとなるテーマを取り扱っているにもかかわらず、本書が描き出すこの時期の二国間関係(というより両国に住む人たちの関係といった方が正確であろう)は非常にヴィヴィッドであり、とても興味深い。それは、本書で行われているのが、一次史料から浮かび上がる歴史のひとコマひとコマを丁寧に追う作業であり、そこで描かれている一つひとつの小さなエピソード(それらは世界史的大事件のような耳目をひくようなものではない)について史料から語り得るものを語り得る範囲で語るという禁欲的な姿勢に著者が終始しているからであろう。

 

本書は序章と終章をのぞけば7つの章で構成されているが、主には6つのエピソード(チェコスロヴァキア建国の父であり初代大統領であるT・G・マサリクの日本訪問、東部シベリア、オロヴャンナヤ駅でのチェコスロヴァキア軍団と日本軍の邂逅、チェコスロヴァキア軍団の傷病兵と日本人看護婦との東京やウラジヴォストークでの医療面での交流、山ノ井愛太郎という日本最初のチェコ語学習者の一人、遭難したチェコスロヴァキア軍団の帰国船が日本近海で救助されたヘフロン号事件、両軍が衝突したハイラル事件)を取り上げている。一つひとつは上述したように大事件ではなく、良く知られている話ではない。それを史料から読み解いていく作業はさながらミステリーを読むような面白さがある。しかし、残念ながら歴史には作者がいないのであり、史料から語り得るものには限界がある。もう少しというところで迷宮入りしてしまい、真実がわからないエピソードも多いが、歴史家らしい著者の禁欲的姿勢は、むしろ読者の歴史理解を深めてくれているように思える。また、それぞれのエピソードが決してすべてが相互に関連しているわけでもない。しかし、それを通じて読むことによってこの時期の日本とチェコスロヴァキアの関係が浮かび上がってくるのが不思議である。

 

一つひとつの小さなエピソードを読み進めることによって、しかし通読してみると、全体として、歴史の流れが見えてくるというのはまさに歴史を読む面白さであり、恐らくは歴史を書く醍醐味でもあるのではないだろうか。本書はそんな歴史の楽しさを改めて教えてくれる一冊といえる。