つらねのため息

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

ジェラルド・グローマー著『瞽女うた』を読む

2014-06-17 01:17:00 | くびき野
ジェラルド・グローマー『瞽女うた』(岩波新書、2014年)



家々を巡り歩き三味線伴奏で歌う盲目の女旅芸人、瞽女。本書の冒頭にある通り、瞽女がいたのは「それほど昔ではなかった」。私の義理の伯父は農家であったその実家に、幼い頃、「瞽女さん」が来ていたという。彼女たちはどのような存在であったのか。そして、彼女たちがいなくなってしまった今、瞽女あるいは「瞽女うた」は歴史の中の「伝統芸能」に過ぎないのだろうか。

本書は中世に被差別者・困窮者であった女性視障者たちが芸能という生活手段を得て、近世社会に広がっていた様を描き出す。瞽女として組織化され、一定の「正統性」を保持した彼女たちは、交通の発達と相まって、芸能を広める役割を果たし、近世の音楽文化に大きく貢献した。

そして、本書はそのような瞽女たちの活動の展開を数少ない資料から描き出すと同時に、瞽女たちを支えた社会、そして彼女たちのレパートリーを読み解くことによって、近世の社会や音楽文化のあり様を描写する。

そこに描き出されているのは、驚くほどに豊穣な近世の音楽文化であり、それを支えた江戸時代の人々の姿である。考えてみれば当たり前のことだが、当時においても音楽の流行があり、人々はそれを演奏者である瞽女に求め、彼女たちもそれに応えた。そこには芸術があり、それを広めるプレーヤーがいて、それを求める聴衆がいた。そこでは瞽女たちはプロの芸人であったのだ。

また、瞽女たちを支える社会が存在したということは、彼女たちの演奏を聴く聴衆が広く存在したということであると同時に、萌芽的なものとはいえ視障者である彼女たちを支える、福祉の機能を地域社会が発揮していたということでもあった。西国を中心に、瞽女への扶持米制度を設けていた藩もあったほか、関東の村々では来訪する瞽女に対して賄い代が設けられ、村費によって賄われていたという。到底満足なものであったとはいえないまでも、江戸時代の村々にそのような地域福祉の萌芽が、しかも自主的なものとして存在していたことは興味深い。

近世に大きく広がった瞽女文化も、明治に入ると近代化の中で組織や既得権を失い衰退していった。しかし、筆者は終章で「瞽女が残したもの」を問う。「音楽産業」により安く「生産」され、素早く「消費」され、難なく「廃棄」される近代のヒット曲と異なり、「瞽女うた」は聴くのに「かなりの努力を聴衆に要求し」、少なくとも理解するためには何回か繰り返し聴かねばならない。すなわち、それは簡単には「消費」されない。また、瞽女たちのレパートリーは、流行が終ったあとでもその旋律が変昌されたり、替え歌を載せられたりして、元の素材が再利用される。すなわち流行った唄は、ただ捨て去り、忘れ去られることはない。

今日でも、残された音源や記録をもとに「瞽女うた」に触れることはできる。しかし、言うまでもなくそれらの唄は、当時から「伝統芸能」であったわけではなく、近世の人たちにとっては最新のヒットソングであった。とするならば、当時の人たちがその唄をどのように聴いていたのかがやはり問われねばならない。すなわち、近世に流行した唄は「消費」され「廃棄」されるものではなく、繰り返し聴かれ、同じような素材が再利用されるといった、聴き手とつくり手の相互反復の中でつくりだされてきたものなのだ。瞽女唄の聴かれ方やそれを支えた社会のあり方、当時の音楽文化全体を見直すことによって、瞽女唄の内包する批判力は解放される。それは「音楽商品」を「消費」している私たちの芸能への接し方を問うている。

岩波書店の本書のページ

「瞽女うた」のいくつかを上記のページから聴くことができる。

高田瞽女の文化を保存・発信する会

その名の通り、新潟県上越市の高田瞽女の文化を保存・発信する活動を行っている会のサイト。

神木隊戊辰戦死之碑

2013-07-27 13:32:00 | くびき野
幕末の歴史に詳しい人でも、「神木隊」というものを知っている人は少ないのではないだろうか。神木隊は、戊辰戦争の際、幕府の恩に報いるためとして、越後高田藩の江戸藩邸の抗戦派藩士、86名が脱藩して結成した。高田藩主、榊原家の「榊」の字を分けて「神木」隊という隊の名前にしたという。結成された神木隊は、彰義隊に合流し上野戦争に参加、奮戦するも新政府軍との戦いに敗れた。その後、榎本武揚らと合流、五稜郭落城まで、旧幕府軍と行動をともにした(詳しくは下記参照)。

神木隊(wikipedia)

シリーズ「高田開府400年~第十三回 高田藩と維新の嵐―もうひとつの高田藩―~」『広報じょうえつ』№900(2011年5月15日発行)※PDF

この神木隊の碑が池袋にあると聞いて、先日、見に行ってきた。碑があるのは日蓮宗本立寺。下記サイトによると、本立寺は、元和4年(1618)の創建。榊原家の裏方菩提所(正室の菩提寺)となっていたという。

本立寺|豊島区南池袋にある日蓮宗寺院(猫の足あと)


池袋本立寺


本立寺本堂


本立寺の境内にある神木隊戊辰戦死之碑


碑の裏には戦死した隊士の名と建設者の名が刻まれている

ところで、この建設者の名前の筆頭に「橋本直義」という名が見える。


建設者の名前

この橋本直義とは明治時代に美人画を描いて活躍した浮世絵師、楊洲周延の本名で、彼は高田藩の藩士で、神木隊にも参加した人物であるという。

楊洲周延(wikipedia)

下記の文献によると、楊洲周延は、『夢もの語』という手記を残しており、そこでは江戸を脱出後、宮古湾海戦から箱館戦争に至るまでの神木隊の記録が残されている。

鈴木浩平「楊洲周延と神木隊について ─手記『夢もの語』に記された箱館戦争での記録」『浮世絵芸術』第157号 64-79頁(国際浮世絵学会、2009年:浮世絵芸術データベースで閲覧

幕末というと「維新の志士」や新撰組、会津白虎隊といったストーリーのみが語られがちだが、当然のことながらそれぞれの地域にそれぞれの歴史が残っていると改めて感じた。

『せめぎあう地域と軍隊』

2012-06-02 20:31:00 | くびき野
河西英通著『せめぎあう地域と軍隊――「末端」「周縁」軍都・高田の模索』(2010年、岩波書店)


旧陸軍13師団が設置された新潟県高田市(現上越市)を舞台に、地域と軍隊の間のせめぎあいを描き出した一冊。

13師団は日露戦争下の1905年に編成され、戦後の1907年に高田を衛戍地と決定、翌1908年に旧高田城に入場した。長岡外史や秋山好古が師団長を務めたことでも有名である。しかし1925年のいわゆる宇垣軍縮で13師団は廃止される。本書は、以後、連隊所在地として「末端」、「周縁」の「軍都」となった高田から軍隊と地域の関係性を描き出したものといえる。

一読して気付かされるのは、地域と軍隊の間の冷めた関係性である。たとえば高田の街は師団入場の際に歓迎ムード一色に包まれる。また、師団廃止にあたっても強い反対の声をあげている。しかし、それは地域の活性化を求め、「消費者」、「需要者」としての軍隊に期待した故であった。決して、軍隊であるが故のみをもって、歓迎されたわけではないのである。

日中戦争がはじまるなど戦争が激化していく中で、地域には戦争の影が落ちていく。児童の作文などにみられる意識の変化や企業広告(戦勝を祝う乾杯用にという日本酒広告は興味深い)などの変化はそれを物語っている。しかし、地域と軍隊の冷めた関係は戦時体制下にあっても、強固な緊迫感となってはいない。1938年に宿営地の紹介を受けた和田村(現上越市和田区)の村長が照会から3週間近くアクションを起こしていないという指摘(本書179頁)は興味深い。1945年は豪雪にあたり、軍隊に貸し出した「一人曳雪橇」の紛失が明らかになり、地域からの返還請求により現物での返却が行われているというエピソードもある
(本書208頁)。

また地域と軍隊の矛盾という意味でいえば地域住民でもあり兵士でもあった在郷軍人会と将校団の中に出てくる矛盾も面白い。将校団は数が少なすぎ、地域に浸透するには不十分だったこと。また地域の中では軍隊の階級秩序が貫徹されないため、郷村秩序との乖離が生じることなどの指摘も興味深い(本書第3章)。

「戦争を知らない」私たちは、ともすれば軍隊というものは常に歓迎された存在であるように思いがちだが、実際には現代と変わらぬ、地域で生きる人々との関係の中に軍隊は存在していたのだ。

また、「日本三大夜桜」として知られる旧城跡高田公園の「観桜会」も1917年に師団司令部が構内を解放したことに始まること(本書50頁)や、高田の朝市も師団側からの野菜の定期市場設置の要請に基づく(本書43~44頁)という指摘もある。地域と軍隊の関係が今もその優奈形で残っているというのは非常に興味深い。

『越後國細見大繪圖』

2010-08-19 16:37:00 | くびき野
筑波大学の附属図書館のウェブサイト内に古絵図資料一覧というコーナーがありそこに『越後國細見大繪圖』というものがあることを知った。

これは天保13年(1832年)のころの地図らしいが、ぼくの土地勘がある高田~糸魚川にかけてついてもいくつか面白い発見があった。

以下思いつくままにあげていく。

・「南葉山」が「難波山」となっている。
・「有間川」が「有馬川」となっている(そもそもwikipediaの有間川の項でこの地図のことを知ったのだが)。
・徳合は現在海側が「浜徳合」、山側が「徳合」となっているが、この地図では海側が徳合、山側が「山徳合」となっている。
・「仙納」は「千納」
・能生は地名は「能生」となっているが川の名は「能川」となっている。
・直江津が当時「今町」と呼ばれていたのは知っていたが、その沖合いに「直江浦」という書き込みがある。当時はそう呼んでいたのだろうか。

他にも発見がありそうなので、また、じっくり見て行きたい。

頚城八谷考

2010-04-18 19:21:00 | くびき野
以前の記事で「頚城八谷」について少し調べたことを書いた。

その後、色々調べていたところ『訂正越後頚城郡誌稿』なる書物があることを発見した。幸いにして大学図書館で同書を入手したので、そこから「頚城八谷」についての記述をいくつか見てみたい。

なお、序によると『訂正越後頚城郡誌稿』とは16名の旧高田藩士が旧藩関係の資料が隠滅し、記憶が薄れるのを心配して、資料収集を行い明治34年に原稿浄書に至った「越後頚城郡誌稿」を文学者の相馬御風と歴史家の布施秀治が補正朱書したものとのことである。現在、古書として流通しているものは、これを底本にして昭和44年に「越後頚城郡誌刊行会」が上下巻及び付図の三点を刊行したもののようである。

さて、同書の第一章「地勢・名称・石高」の冒頭に「地勢名称考」なる文章がある。それによると「又西浜ニ七谷ノ称アリ。又東山ニ保倉谷アリ。是ヲ頚城郡ノ八谷ト称シ郷ニ十四郷アリ(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻39ページ)」という一文がある。

つまり、同書に従えば、西浜七谷と保倉谷を合わせて頚城八谷と呼ぶということで間違いはなさそうである。

続いて「国郡庄保郷名称考」という文章がある。
その中に「現在郷名」として

――以下引用――

川西谷 西浜七谷ノ一ツナリ。一名今井谷トモ云。
根知谷 同
西海谷 同
早川谷 同
能生谷 同
名立谷 同
桑取谷 同
是ヲ西浜七谷ト称ス。然シテ七谷往古ハ庄保ヲ以テ称セシニ何レノ世ヨリカ谷ト称スルト雖モ、其時代ヲ審ニセス。
(中略。郷名が続く)
保倉谷 山五十公郷・下美守郷・松ノ山郷等ノ間ニアル小谷ナリ。
(中略。郷名が続く)
右当郡拾三郷八谷(西浜七谷東山一谷)ヲ以テ郷里ヲ区別ス。
(以下略)

(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻44~45ページ)

--引用終わり--

との記述がある。
これによれば、「川西谷・根知谷・西海谷・早川谷・能生谷・名立谷・桑取谷」で西浜七谷ということで間違いはなさそうだ。

なお、上記の引用では「拾三郷八谷」となっているが、そのあとの省略したところの記述では松平光長の時代に当時「八谷拾郷」だったものを「拾五郷八谷」に再編したとの記述があるので「拾三郷」ではなく「拾五郷」が正しいのかもしれない。なお、「此改革ハ小栗美作ノ大功ナリト伝フ。(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻45~46ページ)」とのことである。

ちなみにそこでは「西浜六谷」という表現があり、根知谷は当時「荻田領ニテ組外ナリ」と記されている。越後騒動で小栗美作と争った荻田本繁は、高田藩の家老であり糸魚川清崎城代を務めた家柄であることから、荻田領とはこの糸魚川領に入っていたことを示すものと思われる。

まとめれば「頚城八谷」のうち保倉谷を除く「川西谷・根知谷・西海谷・早川谷・能生谷・名立谷・桑取谷」の七谷を「西浜七谷」といい、そのうち松平光長時代に糸魚川領であった根知谷を除く六谷を「西浜六谷」と呼ぶということらしい。

今後も、もう少し『訂正越後頚城郡誌稿』から考察を深めてみたい。