前の前の記事でトラックバックをさせていただいた社民党躍進を祈るブログさんに興味深い記事があったのでリンクさせていただく。
社民党は護憲だけでいいのか?(2007-12-06)
憲法の問題に関して常々感じるのは、「護憲」という言葉の意味があまり深く考えられずに論じられているのではないかと点である。ぼくがひっかかりを感じるのは、しばしば「憲法9条を守る」とか「平和憲法を守る」という意味で「護憲」という言葉が使われている点である。ちょっと考えればわかることだが、この二つはまったく同義ではない。日本国憲法は国のかたちを定める基本法であって9条のみで成り立っているわけではない。「9条を守れ」というのと「憲法を守れ」というのはまったく違う議論である。
以前にも触れたとおり、天皇制とかの問題もあるので個人的には現行憲法を何が何でも守れというのはおかしいと思っている。なのでぼくはあんまり「護憲」という言葉は使いたくない。
しかし、逆に言えば、「護憲」という言葉の戦略的な意義がそこにはないだろうか?「護憲」という行為は9条を守るということでもあるけれども、同時にたとえば1章の天皇制を守るという意味も発生する。24条が守られる限り同姓婚は実現できないし、29条を守るというのは私有財産制が維持されるという保障でもある。
「左翼」が天皇制も守り、私有財産制も守る(まぁ、いまどきそんなごりごりの社会主義者なんてそういないだろうけれども)といっているのだから、保守派にとってこんなに嬉しいことはないのではないだろうか?
つまるところ、「護憲」というのは究極の保守言説なのである(なにしろ「今あるものを守れといっているだけなのだから」)。
もちろん憲法「改正」論者の多くが9条をその標的にしている以上、「護憲」=「9条を守る」という意味になるという現実政治上の意味は十分理解している。しかし、それは同時にこの「護憲」という言葉をより広く活用していく好機でもあるはずだ。
せっかく「9条改悪反対」(個人的にはこう言いたいし、本来の「護憲派」の主張はこういうことであろう)ではなく、「護憲」という言葉を使うのであれば、その戦略的射程を生かさない手はない。「憲法を守る」ということは戦後日本が歩んできた天皇制と資本主義と平和憲法の(危うい)バランスを維持しようということである。その射程の先にいるのはかつて55年体制の下で、人々が求めていたものとちょうど重なり合うのではないだろうか?そして、かつて自民党一党支配を支えてきた人たちは、今小泉構造改革の下で競争にさらされ、格差にあえいでいる。憲法第3章に書かれた多くの権利は彼女/彼らの生活を守り、拡充させていくひとつの道しるべとなる。「護憲派」はその言葉の内実を深めることによって、その裾野を大きく広げることができるはずだ。
そもそも、国民投票法ができた以上、たとえ「護憲派」であっても「護憲政党」に投票する必要はない。国民投票という場は改憲の場であると同時に護憲の場ともなりうる。過半数の市民が「護憲」を望めばたとえ多くの政治家が改憲を望んでも国民投票によって否決されうる。欧州憲法条約が各国でほとんどの政治家に支持されながらも国民投票で批准を拒否されるという現象はまだ、われわれの記憶に新しい。
それに、「護憲」は政治的スローガン、旗印ではあっても政策ではない。「護憲派です」というだけでは改憲案が出てきたときに反対するというだけであり、きわめて消極的、かつ受動的な意義しか持たない。極論すれば、それは「改憲派が改憲案を出さない場合は何もしません」という姿勢と同じだからである。
「護憲」の深化がが必要ではないだろうか。
社民党は護憲だけでいいのか?(2007-12-06)
憲法の問題に関して常々感じるのは、「護憲」という言葉の意味があまり深く考えられずに論じられているのではないかと点である。ぼくがひっかかりを感じるのは、しばしば「憲法9条を守る」とか「平和憲法を守る」という意味で「護憲」という言葉が使われている点である。ちょっと考えればわかることだが、この二つはまったく同義ではない。日本国憲法は国のかたちを定める基本法であって9条のみで成り立っているわけではない。「9条を守れ」というのと「憲法を守れ」というのはまったく違う議論である。
以前にも触れたとおり、天皇制とかの問題もあるので個人的には現行憲法を何が何でも守れというのはおかしいと思っている。なのでぼくはあんまり「護憲」という言葉は使いたくない。
しかし、逆に言えば、「護憲」という言葉の戦略的な意義がそこにはないだろうか?「護憲」という行為は9条を守るということでもあるけれども、同時にたとえば1章の天皇制を守るという意味も発生する。24条が守られる限り同姓婚は実現できないし、29条を守るというのは私有財産制が維持されるという保障でもある。
「左翼」が天皇制も守り、私有財産制も守る(まぁ、いまどきそんなごりごりの社会主義者なんてそういないだろうけれども)といっているのだから、保守派にとってこんなに嬉しいことはないのではないだろうか?
つまるところ、「護憲」というのは究極の保守言説なのである(なにしろ「今あるものを守れといっているだけなのだから」)。
もちろん憲法「改正」論者の多くが9条をその標的にしている以上、「護憲」=「9条を守る」という意味になるという現実政治上の意味は十分理解している。しかし、それは同時にこの「護憲」という言葉をより広く活用していく好機でもあるはずだ。
せっかく「9条改悪反対」(個人的にはこう言いたいし、本来の「護憲派」の主張はこういうことであろう)ではなく、「護憲」という言葉を使うのであれば、その戦略的射程を生かさない手はない。「憲法を守る」ということは戦後日本が歩んできた天皇制と資本主義と平和憲法の(危うい)バランスを維持しようということである。その射程の先にいるのはかつて55年体制の下で、人々が求めていたものとちょうど重なり合うのではないだろうか?そして、かつて自民党一党支配を支えてきた人たちは、今小泉構造改革の下で競争にさらされ、格差にあえいでいる。憲法第3章に書かれた多くの権利は彼女/彼らの生活を守り、拡充させていくひとつの道しるべとなる。「護憲派」はその言葉の内実を深めることによって、その裾野を大きく広げることができるはずだ。
そもそも、国民投票法ができた以上、たとえ「護憲派」であっても「護憲政党」に投票する必要はない。国民投票という場は改憲の場であると同時に護憲の場ともなりうる。過半数の市民が「護憲」を望めばたとえ多くの政治家が改憲を望んでも国民投票によって否決されうる。欧州憲法条約が各国でほとんどの政治家に支持されながらも国民投票で批准を拒否されるという現象はまだ、われわれの記憶に新しい。
それに、「護憲」は政治的スローガン、旗印ではあっても政策ではない。「護憲派です」というだけでは改憲案が出てきたときに反対するというだけであり、きわめて消極的、かつ受動的な意義しか持たない。極論すれば、それは「改憲派が改憲案を出さない場合は何もしません」という姿勢と同じだからである。
「護憲」の深化がが必要ではないだろうか。