つらねのため息

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

ばらんすおぶぱわー

2003-04-29 00:00:00 | 海外のこと
ぼくが風邪をひいている間にも地球は回っているものらしく、サダムさんの国での戦争が終わったと思ったら、今度はお隣のキムさんの国が核爆弾を持っているなどと物騒なことを言い出したらしい。ぼくなんかは「そんな金と労力があるのなら少しでもお米を輸入したら?」などと思ってしまうのだが、どうやら独裁者という職業の方は凡人とは発想が違うようだ。

あの貧乏な国が核兵器をつくる金と技術を持っていることにも少々驚いたが、太平洋の反対側にある、大統領をインチキ選挙で選んだ国では日本も対抗して核武装するべきだという意見があるということをきいてさらに驚いてしまった。そういう論者の論拠になっているのが「勢力均衡論」っちゅうやつだ。ぼくも国際政治学に関しては素人なので分かったようなことをいうのは少々おこがましいのだが、「勢力均衡論」とは簡単にいえば国と国のあいだに力の均衡が保たれていればバランスがとれて国際政治が安定するという理論だ。ちょっと考えてみればすぐわかることだがこの理論はずいぶん怪しい。だいたい国の力なんてどうやって測るのだろうか?某歴史シミュレーションソフトではないのだから「政治力:××、戦闘力:○○、知力:△△」みたいに数字化できるわけではないのに。それにこの理論は戦争を回避する理論ではない。力のバランスが一方にかたよったらどうするのか?もう一方が力を強化するか、もしくはかたよりつつある力を軍事的に削るかだ。ふつう国力の強化なんて一朝一夕にできるものではないから、そういう場合戦争に訴える可能性が強くなる。勢力均衡というのははじめから戦争が前提となったシステムなのである。

それじゃあ一国の安全はどうやって守るのか。お互いに予防のために自国の軍事力を強化するしかない。結局果てしない軍拡競争になる。でも国力に限りがあるから永遠に競争し続けることはできない。どこかで自国が有利になった状況を見はからって、戦争をして相手をつぶし自分の安全を保障しようという話になる。

世界がそんな馬鹿な方向へ行かないことを願うばかりである。

なぜだ?

2003-04-16 00:00:00 | 過去ログ転載
初回はやたら重い話題でしたが、今回は打って変わって軽い話題を。

なにやら、ヤンキースの松井選手がご活躍されているそうで。おかしなものでアンチ巨人の一家に生まれ育ち、巨人時代は松井選手が何をしようとまったく興味のなかったぼくでも彼がメリケンで活躍しているのを見ると悪い気がしないものです。彼個人の努力や才能にはきっとすばらしいものがあるのでしょう。心より敬意を表します。

が、しかし、ちとおかしくはないか、最近の報道は。まぁ、ヤンキースサイドが日本のメディアに松井の存在を売り込むであろうことは理解できる。しかし日本のメディアは騒ぎすぎではないのか。ただでさえ日本球界の危機が言われているというのに、海外の報道をそんなにしてどーする?

特に「公共放送」を名乗る某局。ニュースの時間のたびに松井の全打席を垂れ流すのはやめてくれ。松井がフォアボールをえらんだことよりもいいニュースが日本にはあるはずだ。イラク戦争華やかなりしころなど、戦争報道と「今日の松井選手全打席」と天気予報しかやっていなかった。あのころの日本国内のトップニュースは松井の内野ゴロより劣るようなニュースだったのか?

だいたい「公共放送」が一人の選手に偏った報道をしていいのか?前首相の政治的圧力がかかっているなどと勘繰っているのはぼくだけ?

ひそかな青臭い決意

2003-04-13 00:00:00 | 海外のこと
いきなり重い話題で恐縮ですが、昨日フォト・ジャーナリストの広河隆一さんのイラク帰還報告会に行ってきました。改めて戦争のひどさをまざまざと見せ付けられてとても重い気持ちで帰途につきました。言うまでもないことですが、戦争は、暴力は、決して幸せをもたらすものではありません。また、今回のアメリカ合衆国政府の行動があらゆる見地から見て容認されるべきものではなかったことはすでに様々なところで明らかにされている通りです。戦争に反対することは当然のことだと思うのでここで、あえてくどくどと書いたりはしません。

昨日の夜、ぼくが重い気分になったのは世界中の人々がどんなに反対しようとも、罪のない弱い立場にいる人々がどんなに傷つこうとも戦争は冷厳として遂行されるという事実を改めて突きつけられたからです。政治という言葉で括られるような世界の大文字の動きが人々の想いや現実にその地で暮らす人々の実生活とは無関係に動いていくことを今回の「戦争」ははっきり示したと思います。一人の政治学を志す人間としてこのことには忸怩たる想いです。ぼくは政治は常に弱い人のことを考えなければいけないと思います。と同時にその力と力のパワーゲームという一面を無視してはいけないと思います。でもそのことは決してきれいごとだけを言うことや、世の中をあきらめることとイコールではない。それは現実のリアルな政治にぶつかっていくことや、一人一人の想いを大文字の力に変えることが必要とされていることなのだと思う。ほとんど語られることのない、もしくは語られることすらなされない人々の現実の想いを巨大な政治機構につなげひとつの力として解放する、そのための方法が絶対に必要だと思う。少なくともぼくはその一助となるような学問をしたいと思ふ。

重くなってしまってゴメンナサイ。最初ということで許してくださいな。