今日、小平市で住民投票が行われている。問われているのは、50年前に決まった都道建設計画を見直すかどうか。直接請求による住民投票が実現するのは、東京都では初めてのことという。そんな昔の都市計画がまだ有効だったのかとか色々と驚きはあるが、少し考えたことを申し述べたい。
考えたいのは直接請求の成立後、小平市が投票率50%の成立要件を加える条例改正案を市議会に提出、可決された点だ。小平市の小林正則市長は「投票の信頼性、実効性を担保するため、ある程度、投票率が高くないと市民の総意、市を代表した意見として取り扱うのはどうなのか、と考えた」と説明しているという。
東京新聞:50%未満「総意でない」 小平市長「投票率後出し」正当化:社会(TOKYO Web)
なんだかなあという気がしてしまう。投票率50%という成立要件を課すということは、見直しの必要はないと考える人に住民投票をボイコットするという選択肢を与えるということだ。投票をしないという選択、市民に参加の機会を放棄させるということが民主主義やまちの自治にとって良いことなのだろうか。投票をボイコットするということは、その体制の正統性に対する疑義から生じる行動のように思う。国政や自治体の選挙の際、各自治体は投票率の向上のためにかなりのアピールをする。それは何も選挙を通じた参加が市民の権利だからだけではなく、多くの市民の参加が選挙やそれによって選ばれる首長や議員などの「代表」性、ひいてはその体制自身までもの正統性を、より強固なものにするからだろう。もし見直しの必要がないと考える人が多数派なのならば、投票に参加して粛々と否決すればいいだけのことである。市民の参加の機会を奪うような方法に強い違和感を覚える。
もうひとつ考えたいのは、選挙で選ばれた「代表」の方々にしばしばみられる直接民主主義的な手法に対する忌避感である。彼らは自分たちのみが正統な意思決定機関であるかのように考え、直接請求や住民投票のような市民が直接参加する手法を否定的に捉えがちであるように思われる。しかし、だとすればなんなのだろうか。日本の住民投票は憲法に定められたものやリコールのように地方自治法などの法律に定められたものを除けば、諮問型の住民投票に過ぎず、法的な拘束力を持たない。自分たちが正当な市民の「代表」であると考えていて、例えば投票率が低いなどの理由で住民投票の信頼性が担保されていないと考えれば、首長や議会はその結果を無視すればよい。何をびくびくとしているのだろうか。しばしば指摘されているように、小林正則市長が三選を果たした4月の市長選の投票率は37.28%であった。自らの正統性に自信を持てない「代表」が、市民参加に成立要件を設け、その「信頼性、有効性」を云々するとはどういうことなのだろうか。
各種選挙における投票率|東京都小平市
ところで、投票率をみていて改めて思ったことがある。これは小平市に限った問題ではないが、国政レベル、都レベルの選挙に比べ市議会議員選挙や市長選挙の投票率は著しく低い。大事なのは国政だけではないはずだ。むしろ自分たちに身近なレベルでの選挙でこそ参加することが大切だ。ヴィリー・ブラントの有名な言葉を借りれば「もっと民主主義を!」というキャッチフレーズは何よりもそれぞれのまちの自治の場にこそ相応しい。住民投票のような機会だけではなく、日頃から自分たちのまちの自治に関心を持ていなければと改めて思う。せめて4年に一度の選挙くらいは。
考えたいのは直接請求の成立後、小平市が投票率50%の成立要件を加える条例改正案を市議会に提出、可決された点だ。小平市の小林正則市長は「投票の信頼性、実効性を担保するため、ある程度、投票率が高くないと市民の総意、市を代表した意見として取り扱うのはどうなのか、と考えた」と説明しているという。
東京新聞:50%未満「総意でない」 小平市長「投票率後出し」正当化:社会(TOKYO Web)
なんだかなあという気がしてしまう。投票率50%という成立要件を課すということは、見直しの必要はないと考える人に住民投票をボイコットするという選択肢を与えるということだ。投票をしないという選択、市民に参加の機会を放棄させるということが民主主義やまちの自治にとって良いことなのだろうか。投票をボイコットするということは、その体制の正統性に対する疑義から生じる行動のように思う。国政や自治体の選挙の際、各自治体は投票率の向上のためにかなりのアピールをする。それは何も選挙を通じた参加が市民の権利だからだけではなく、多くの市民の参加が選挙やそれによって選ばれる首長や議員などの「代表」性、ひいてはその体制自身までもの正統性を、より強固なものにするからだろう。もし見直しの必要がないと考える人が多数派なのならば、投票に参加して粛々と否決すればいいだけのことである。市民の参加の機会を奪うような方法に強い違和感を覚える。
もうひとつ考えたいのは、選挙で選ばれた「代表」の方々にしばしばみられる直接民主主義的な手法に対する忌避感である。彼らは自分たちのみが正統な意思決定機関であるかのように考え、直接請求や住民投票のような市民が直接参加する手法を否定的に捉えがちであるように思われる。しかし、だとすればなんなのだろうか。日本の住民投票は憲法に定められたものやリコールのように地方自治法などの法律に定められたものを除けば、諮問型の住民投票に過ぎず、法的な拘束力を持たない。自分たちが正当な市民の「代表」であると考えていて、例えば投票率が低いなどの理由で住民投票の信頼性が担保されていないと考えれば、首長や議会はその結果を無視すればよい。何をびくびくとしているのだろうか。しばしば指摘されているように、小林正則市長が三選を果たした4月の市長選の投票率は37.28%であった。自らの正統性に自信を持てない「代表」が、市民参加に成立要件を設け、その「信頼性、有効性」を云々するとはどういうことなのだろうか。
各種選挙における投票率|東京都小平市
ところで、投票率をみていて改めて思ったことがある。これは小平市に限った問題ではないが、国政レベル、都レベルの選挙に比べ市議会議員選挙や市長選挙の投票率は著しく低い。大事なのは国政だけではないはずだ。むしろ自分たちに身近なレベルでの選挙でこそ参加することが大切だ。ヴィリー・ブラントの有名な言葉を借りれば「もっと民主主義を!」というキャッチフレーズは何よりもそれぞれのまちの自治の場にこそ相応しい。住民投票のような機会だけではなく、日頃から自分たちのまちの自治に関心を持ていなければと改めて思う。せめて4年に一度の選挙くらいは。