日本中WBCで盛り上がっているが、今日から将棋の第55期王将戦七番勝負第7局が新潟県佐渡市の「ホテル大佐渡」で始まったことはあんまり知られていないだろう。
羽生三冠の三連勝の後佐藤棋聖の三連勝で迎えた第7局、羽生三冠が踏みとどまるのか、佐藤棋聖が王将位を奪取するか。
将棋界ではタイトル戦で三連勝のあと四連敗ということが過去一度もない。しかし、羽生三冠は森内名人にタイトルを奪われた棋王戦、谷川九段に敗れたA級順位戦プレーオフとここのところ調子を落としているので、ひょっとするとひょっとするかもしれない。結果が気になるところである。
ちなみにインターネット中継はこちら。
さて、ぼくは将棋ファンである。しかし、ここ数年将棋を指したことはおろか駒に触れたことすらない。テレビのNHK杯戦を観戦したり、今回の王将戦のようにインターネット中継があるときはそれを観戦したりして楽しんでいるわけだ。おそらくぼくのような将棋ファンは少数派であろう。大概の将棋ファンはプロの将棋を見て楽しむと同時に自ら詰め将棋を解いたり街の将棋道場のようなところで将棋を指して楽しむいわばアマチュアプレーヤーである。この競技人口≒ファン層という状況を変えない限り、将棋ファンの革命的増大は望み得ない。
これが野球やサッカーなどのメジャースポーツになると様相は一変する。これらの競技をやったことがない人間ですらそれなりの知識を持って観戦することができるし、贔屓のチームを応援する。なかにはルールをよく知らなくても選手の外見や言動なんかをもとにファンになる人も出てくる。こうしたいわば「素人ファン」の獲得こそが大衆社会にプロスポーツが生き残る方法であろう。すなわち競技を実際にプレーしないが、観戦などによって楽しむ人々の存在である。
このようないわば「プレーしない受け手」の存在は音楽や文学の世界にある。楽器をまったく弾けなくても人々は日常的に音楽を聴き楽しんでいる。ウォークマンやiPodの浸透はそのことを如実に物語る。カラオケという問題はあるけれども、そこでは人々は音楽の作り手として振舞うのではなく、むしろそれを消費しているのであって、その意味でカラオケは音楽の新たな「受け方」を提供したに過ぎない。
また、小説を読む人の殆どは自ら執筆するという経験を生涯持たないであろう。
というわけで、一将棋ファンとしては将棋を知らない層へと将棋人気が広まっていくことを期待してやまない。例えば「○○九段の将棋に打ち込む姿勢が好き」とか「○○八段の駒を動かすときのしぐさが何とも言えない」とか、単に「○○四段、かっこいい~」とか。
そういう意味で言えば昨年、将棋界で61年ぶりとなるプロ編入試験の末プロとなった瀬川晶司四段の事例は非常に面白い。瀬川四段がこれからトップ棋士になる可能性はゼロとは言わないが限りなく小さいだろう。しかし、彼のプロ入りによって将棋を知らない層へも将棋が広まったという普及の効果は大きなものがある。彼の指す将棋そのものではなく、一人の夢をあきらめた人間が再びその夢を現実のものにするというドラマを作り出したことによって、あの編入試験は一つの意味をもったし、それのみで、瀬川四段はプロとしての資格を持つのである。
もっとも、「素人ファン」の増大は決していいことばかりではない。それは様々なかたちでのファンの質的変容をもたらす。例えばあらかじめ収録されたテレビ棋戦の結果を放映前に将棋棋士のファンサイトなどで公開することはしないというルールがあるけれども、これもファンの善意によって成り立っているルールであって破ろうと思えばいくらでも破ることができる(実際某巨大掲示板に流出したことがある)。また数年前の羽生7冠誕生の際に、(7冠誕生という)結果のみを追い求めたマスコミの理不尽な報道が不公平な状態を生み出してしまったことは島朗八段の名著『純粋なるもの』に詳しい。ファン層の増大はアマチュアプレーヤーとプロが形成している一種のコミュニティを崩壊させかねない。「勝った」、「負けた」という結果のみが追い求められたり、極私的なことが話題に上がったりするのは様々なところで目にする。
また一方でファンの「コア化」とでもいうべき事態も進行する。例えば作家の私信や未発表原稿が流出したり、ブートレグが出回ったりするのもそれらを欲する変質狂的なファンが存在するからに他ならない。
こういったファンの多層化は本来注目されるべきプレーや作品への眼差しを減じさせる、もしくは少なくとも変容させる効果を持つ。様々な予備情報を得た上では、ファンがプロの営為をそのものとして純粋に味わうことは難しい。
もちろん、あらゆる予備情報を遮断することは不可能である。もし可能であるとしても、おそらくそれは情報を遮断している(平たく言うならばミステリアスな雰囲気を作り出している)という「情報」を与えるという意味合いを持つ。
いずれにせよ「プロであること」や「ファンであること」は意外に難しい含意を持っているような気がしてならない。
羽生三冠の三連勝の後佐藤棋聖の三連勝で迎えた第7局、羽生三冠が踏みとどまるのか、佐藤棋聖が王将位を奪取するか。
将棋界ではタイトル戦で三連勝のあと四連敗ということが過去一度もない。しかし、羽生三冠は森内名人にタイトルを奪われた棋王戦、谷川九段に敗れたA級順位戦プレーオフとここのところ調子を落としているので、ひょっとするとひょっとするかもしれない。結果が気になるところである。
ちなみにインターネット中継はこちら。
さて、ぼくは将棋ファンである。しかし、ここ数年将棋を指したことはおろか駒に触れたことすらない。テレビのNHK杯戦を観戦したり、今回の王将戦のようにインターネット中継があるときはそれを観戦したりして楽しんでいるわけだ。おそらくぼくのような将棋ファンは少数派であろう。大概の将棋ファンはプロの将棋を見て楽しむと同時に自ら詰め将棋を解いたり街の将棋道場のようなところで将棋を指して楽しむいわばアマチュアプレーヤーである。この競技人口≒ファン層という状況を変えない限り、将棋ファンの革命的増大は望み得ない。
これが野球やサッカーなどのメジャースポーツになると様相は一変する。これらの競技をやったことがない人間ですらそれなりの知識を持って観戦することができるし、贔屓のチームを応援する。なかにはルールをよく知らなくても選手の外見や言動なんかをもとにファンになる人も出てくる。こうしたいわば「素人ファン」の獲得こそが大衆社会にプロスポーツが生き残る方法であろう。すなわち競技を実際にプレーしないが、観戦などによって楽しむ人々の存在である。
このようないわば「プレーしない受け手」の存在は音楽や文学の世界にある。楽器をまったく弾けなくても人々は日常的に音楽を聴き楽しんでいる。ウォークマンやiPodの浸透はそのことを如実に物語る。カラオケという問題はあるけれども、そこでは人々は音楽の作り手として振舞うのではなく、むしろそれを消費しているのであって、その意味でカラオケは音楽の新たな「受け方」を提供したに過ぎない。
また、小説を読む人の殆どは自ら執筆するという経験を生涯持たないであろう。
というわけで、一将棋ファンとしては将棋を知らない層へと将棋人気が広まっていくことを期待してやまない。例えば「○○九段の将棋に打ち込む姿勢が好き」とか「○○八段の駒を動かすときのしぐさが何とも言えない」とか、単に「○○四段、かっこいい~」とか。
そういう意味で言えば昨年、将棋界で61年ぶりとなるプロ編入試験の末プロとなった瀬川晶司四段の事例は非常に面白い。瀬川四段がこれからトップ棋士になる可能性はゼロとは言わないが限りなく小さいだろう。しかし、彼のプロ入りによって将棋を知らない層へも将棋が広まったという普及の効果は大きなものがある。彼の指す将棋そのものではなく、一人の夢をあきらめた人間が再びその夢を現実のものにするというドラマを作り出したことによって、あの編入試験は一つの意味をもったし、それのみで、瀬川四段はプロとしての資格を持つのである。
もっとも、「素人ファン」の増大は決していいことばかりではない。それは様々なかたちでのファンの質的変容をもたらす。例えばあらかじめ収録されたテレビ棋戦の結果を放映前に将棋棋士のファンサイトなどで公開することはしないというルールがあるけれども、これもファンの善意によって成り立っているルールであって破ろうと思えばいくらでも破ることができる(実際某巨大掲示板に流出したことがある)。また数年前の羽生7冠誕生の際に、(7冠誕生という)結果のみを追い求めたマスコミの理不尽な報道が不公平な状態を生み出してしまったことは島朗八段の名著『純粋なるもの』に詳しい。ファン層の増大はアマチュアプレーヤーとプロが形成している一種のコミュニティを崩壊させかねない。「勝った」、「負けた」という結果のみが追い求められたり、極私的なことが話題に上がったりするのは様々なところで目にする。
また一方でファンの「コア化」とでもいうべき事態も進行する。例えば作家の私信や未発表原稿が流出したり、ブートレグが出回ったりするのもそれらを欲する変質狂的なファンが存在するからに他ならない。
こういったファンの多層化は本来注目されるべきプレーや作品への眼差しを減じさせる、もしくは少なくとも変容させる効果を持つ。様々な予備情報を得た上では、ファンがプロの営為をそのものとして純粋に味わうことは難しい。
もちろん、あらゆる予備情報を遮断することは不可能である。もし可能であるとしても、おそらくそれは情報を遮断している(平たく言うならばミステリアスな雰囲気を作り出している)という「情報」を与えるという意味合いを持つ。
いずれにせよ「プロであること」や「ファンであること」は意外に難しい含意を持っているような気がしてならない。