つらねのため息

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

「ファン」考

2006-03-21 22:41:50 | ノンジャンル
日本中WBCで盛り上がっているが、今日から将棋の第55期王将戦七番勝負第7局が新潟県佐渡市の「ホテル大佐渡」で始まったことはあんまり知られていないだろう。

羽生三冠の三連勝の後佐藤棋聖の三連勝で迎えた第7局、羽生三冠が踏みとどまるのか、佐藤棋聖が王将位を奪取するか。

将棋界ではタイトル戦で三連勝のあと四連敗ということが過去一度もない。しかし、羽生三冠は森内名人にタイトルを奪われた棋王戦、谷川九段に敗れたA級順位戦プレーオフとここのところ調子を落としているので、ひょっとするとひょっとするかもしれない。結果が気になるところである。

ちなみにインターネット中継はこちら

さて、ぼくは将棋ファンである。しかし、ここ数年将棋を指したことはおろか駒に触れたことすらない。テレビのNHK杯戦を観戦したり、今回の王将戦のようにインターネット中継があるときはそれを観戦したりして楽しんでいるわけだ。おそらくぼくのような将棋ファンは少数派であろう。大概の将棋ファンはプロの将棋を見て楽しむと同時に自ら詰め将棋を解いたり街の将棋道場のようなところで将棋を指して楽しむいわばアマチュアプレーヤーである。この競技人口≒ファン層という状況を変えない限り、将棋ファンの革命的増大は望み得ない。

これが野球やサッカーなどのメジャースポーツになると様相は一変する。これらの競技をやったことがない人間ですらそれなりの知識を持って観戦することができるし、贔屓のチームを応援する。なかにはルールをよく知らなくても選手の外見や言動なんかをもとにファンになる人も出てくる。こうしたいわば「素人ファン」の獲得こそが大衆社会にプロスポーツが生き残る方法であろう。すなわち競技を実際にプレーしないが、観戦などによって楽しむ人々の存在である。

このようないわば「プレーしない受け手」の存在は音楽や文学の世界にある。楽器をまったく弾けなくても人々は日常的に音楽を聴き楽しんでいる。ウォークマンやiPodの浸透はそのことを如実に物語る。カラオケという問題はあるけれども、そこでは人々は音楽の作り手として振舞うのではなく、むしろそれを消費しているのであって、その意味でカラオケは音楽の新たな「受け方」を提供したに過ぎない。

また、小説を読む人の殆どは自ら執筆するという経験を生涯持たないであろう。

というわけで、一将棋ファンとしては将棋を知らない層へと将棋人気が広まっていくことを期待してやまない。例えば「○○九段の将棋に打ち込む姿勢が好き」とか「○○八段の駒を動かすときのしぐさが何とも言えない」とか、単に「○○四段、かっこいい~」とか。

そういう意味で言えば昨年、将棋界で61年ぶりとなるプロ編入試験の末プロとなった瀬川晶司四段の事例は非常に面白い。瀬川四段がこれからトップ棋士になる可能性はゼロとは言わないが限りなく小さいだろう。しかし、彼のプロ入りによって将棋を知らない層へも将棋が広まったという普及の効果は大きなものがある。彼の指す将棋そのものではなく、一人の夢をあきらめた人間が再びその夢を現実のものにするというドラマを作り出したことによって、あの編入試験は一つの意味をもったし、それのみで、瀬川四段はプロとしての資格を持つのである。

もっとも、「素人ファン」の増大は決していいことばかりではない。それは様々なかたちでのファンの質的変容をもたらす。例えばあらかじめ収録されたテレビ棋戦の結果を放映前に将棋棋士のファンサイトなどで公開することはしないというルールがあるけれども、これもファンの善意によって成り立っているルールであって破ろうと思えばいくらでも破ることができる(実際某巨大掲示板に流出したことがある)。また数年前の羽生7冠誕生の際に、(7冠誕生という)結果のみを追い求めたマスコミの理不尽な報道が不公平な状態を生み出してしまったことは島朗八段の名著『純粋なるもの』に詳しい。ファン層の増大はアマチュアプレーヤーとプロが形成している一種のコミュニティを崩壊させかねない。「勝った」、「負けた」という結果のみが追い求められたり、極私的なことが話題に上がったりするのは様々なところで目にする。

また一方でファンの「コア化」とでもいうべき事態も進行する。例えば作家の私信や未発表原稿が流出したり、ブートレグが出回ったりするのもそれらを欲する変質狂的なファンが存在するからに他ならない。

こういったファンの多層化は本来注目されるべきプレーや作品への眼差しを減じさせる、もしくは少なくとも変容させる効果を持つ。様々な予備情報を得た上では、ファンがプロの営為をそのものとして純粋に味わうことは難しい。

もちろん、あらゆる予備情報を遮断することは不可能である。もし可能であるとしても、おそらくそれは情報を遮断している(平たく言うならばミステリアスな雰囲気を作り出している)という「情報」を与えるという意味合いを持つ。

いずれにせよ「プロであること」や「ファンであること」は意外に難しい含意を持っているような気がしてならない。

なるほど!

2006-03-20 01:46:36 | 研究・大学のこと
---以下引用---

現在でも東京は学生のたまり場である。セックス産業は、男子学生を客に、女子学生を働き手にと、どちらをも撒きこんで成立する部分が多い。とすれば、男女学生たちさえその気になれば、彼等独自でセックス産業をシンジケート化する目だって出ないわけではない。
(荒俣宏著『異都発掘【新東京物語】』124頁)

---引用終り---

約二十年前にスーフリ事件の一面を予言的に活写した荒俣先生の鬼才には尊崇の念を禁じえない。

民主党の男女共同参画オンブッド会議報告

2006-03-17 11:35:56 | 日本のこと
近頃全く機能していない野党第一党(どこかで見た秀逸な表現によれば「余党」に堕したとか)だが、一方でこういう活動も一応はしていたらしい。んでこんな報告書を出したとか。

内容を読んでみれば最新の研究に裏打ちされた真摯な議論であり、久々に(というかはじめて)この党に好感が持てた。年金などの福祉国家の構造や非正規雇用の増加による格差の増大、社会的排除の問題などその議論の方向性は首肯できるものである。まあ大沢真理先生や宮本太郎先生がいれば当然といえば当然の話だが。もっとも議論の方向性は評価できても、結論がクォータ制の導入をはじめとする女性議員の増加という選挙対策になっている点は少々いただけないけれども。

思うに中道(左派)政党としての「民主党らしさ」もしくは自民党との対立軸というものを考えれば、こういったリベラルでアカデミックな議論と市民運動的な開かれた政治にその立ち位置を求めるのが一番ではないのだろうか(そして当初はそういう志向を持っていたような気がする)。

しかし、いみじくも水島広子前衆議院議員が書いているように、民主党の現状を考えれば報告書が「代表に手渡されたからどうなるのだろう、という気がしないでもない」。

民主党には、はやく民主党らしさを取り戻し、日本の民主主義が少しでもまともなものになるよう努力してもらいたいものである。

ある時代の終焉?

2006-03-14 23:10:22 | 研究・大学のこと
中核派活動家29人逮捕=法政大、立て看板撤去を妨害-警視庁

 法政大学(東京都千代田区)の構内に侵入し、大学側の立て看板の撤去を妨害したとして、警視庁公安部は14日、建造物侵入と威力業務妨害の現行犯で、中核派系全学連委員長織田陽介容疑者(24)ら同派活動家29人を逮捕した。全員が黙秘している。(時事通信)

ひょっとしたら根こそぎ?法政も思い切ったことをしたもんだ。まあ、いずれはこういう日が来るのだろうけど。

うちの大学もそのうちこうなるのかなあ。感傷的な気分にならざるを得ません。

納得

2006-03-14 00:00:00 | 過去ログ転載
Herbert KitscheltのThe Logics of Party Formation: Ecological Politics in Belgium and West Germanyをここのところ読んでいたのだが、どうもKitscheltが左翼リバタリアン政党の開放性や流動性を共産主義グループのセクト主義との対比で強調するのがいまいち実感がわかずにいた。Kitscheltが北欧の新左翼政党まで左翼リバタリアン政党の範疇に含めているところが話をややこしくしているわけだが。

んで、今日大学に行って自治会のタテカンやらなんやらを眺めてようやく話を理解した。確かにあのセクト主義的閉鎖性と比べれば緑の党はオープンで非常に流動的な組織だ。

やはり、学問は実地で実感してなんぼと改めて感じた次第。