つらねのため息

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

英国協同党

2024-07-10 00:22:48 | 生協・協同組合

日本の生協は法律上、政治的中立が要請されていることになっているが(私見では生協法の曲解であるし、当該条項は改正されるべきだと思う)、英国では協同組合運動を基盤とする政党、協同党Co-operative Partyがあり、1918年から活動している。労働党と選挙協定を結んで活動しており、現在ではほぼ一体化してしまっているが、法的には両党は別々の組織である。
労働党と協同党の双方から擁立された(すなわち協同党が関わった)候補者は"Labour and Co-operative Party"の名で活動し、議会内では労働党会派に属している。
今次の英国総選挙の労働党大勝の勢いを受け協同党も躍進し、過去最多となる43議席を獲得、議会第4党となっている(労働党会派内なので独自の行動はないと思われるが)。獲得した議席の中には協同組合運動発祥の地(と書くとやや語弊があるが、birthplaceと書かれていたのでとりあえずそのまま直訳)、ロッチデールRochdale選挙区も含まれている。

英国協同党ウェブサイト


B.I.T.C.

2023-01-27 01:12:10 | 生協・協同組合

twitterを見ていたら、こちらのtweetが目に留まった。

 

現在の小笠原生協は米軍統治下、Bonin Islands Trading Company.という会社だったが、上記ツイートとそのツリーによると、琉球貿易会社RITC、WCTC西カロリン諸島貿易会社が米海軍の指令で同時に三つできたとのこと。

BITCは日本復帰時に生協法が適用されるが、生協法の適用にすべきとしたのは、1968年小笠原諸島の復帰にともなう法令の適用の暫定措置法制定の際の議論にあるとのこと。こちらはよくわからないが「第58回国会 衆議院 沖縄及び北方問題等に関する特別委員会 第2号 昭和43年3月21日」の議事録を紹介しているブログ記事があった。

議事録から転載すると以下のとおり。

現地の住民の自治組織といたしまして、五人委員会があります。その機構、権限、運営状況が今回明らかになりました。この組織は百ドル以下の民事裁判及び軽犯罪についての裁判権を持つ小笠原裁判所、ボーニンアイランズ・コートの裁判官の選出を行なったり、俗にBITCといっておりますボーニンアイランス・トレーディング・カンパニーという一種の生活協同組合ともいえる日用品供給団体にも関係を持っております。住民は、五人委員会、カウンシルがどういうふうに今後なっていくか、あるいはBITCの機能、すなわち生活必需物資の需給ということでございますが、これらの事項の存続について希望を表明しております。当面これらの問題について現住民に不安のないように、住民の要望を十分考慮して考えていく必要があるのではないかというふうに認められます。

この報告をしているのは「一月十八日から二十七日まで政府小笠原諸島調査団の団長として現地に派遣された」守谷道夫説明員。この名前で検索すると「小笠原諸島現地調査団調査報告の概要と復帰に伴う施策の概観」という『ジュリスト』401号(1968年7月)の記事が出てくるので、このあたりは一度目を通してみると面白そう。

 

 

 


エネルギー協同組合法案

2019-06-17 20:14:00 | 生協・協同組合
立憲民主党、国民民主党、共産党、社民党など野党4党1会派が共同で分散型エネルギー社会推進4法案衆院に提出した。

分散型エネルギー社会推進4法案を衆院に提出 - 立憲民主党

提出されたのは「分散型エネルギー利用促進法案」「熱エネルギー利用促進法案」「公共施設省エネ再エネ義務化法案」「エネルギー協同組合法案」の4法案でいずれも概要などが上記リンク先から読める。

このうちのエネルギー協同組合法案、第190回国会に提出された民進党時代のものを下敷きにしているようだけど、旧法案の第3条第4項にあったいわゆる政治的中立条項「組合は、これを特定の政党のために利用してはならない。」がさりげなく削除されているところが素晴らしい。

今回提出されたエネルギー協同組合法案と旧法案はいずれも衆議院のウェブサイトに掲載されている。

衆法 第198回国会 24 エネルギー協同組合法案 (今回の法案)

第一九〇回衆第三三号エネルギー協同組合法案 (旧法案)

『杉並区長日記ー地方自治の先駆者・新居格』

2017-11-10 23:10:00 | 生協・協同組合
虹霓社から復刊された新居格の『杉並区長日記』を読む。作家、評論家でありアナーキストで生協運動家だった新居格が初代民選杉並区長になって何を考えたのか、その思索の跡が見える一冊。

本書を一読してまず思うのは戦時下の抑圧に不遇をかこっていた自由人の新居が、経済的な困難のなかでも日本国憲法のもとで理想を実現しようとする姿勢である。例えば新居は「理想を如何にこの地上に実現するかの努力が、あるべき政治の要諦ではないかと思うのである。だから、どんなに今の現実は痛ましくも、悲劇性をもっていても、わたし共はそれが故に却って逆に理想の炬火をかかげたいような気がする(46頁)」というように語っている。

その「理想」はまずは民主主義であり、しかも新居はそれを地域から、草の根から実現しようとした。裏表紙にも抜粋されている「天下国家をいうまえに、わたしはまずわたしの住む町を、民主的で文化的な、楽しく住み心地のよい場所につくり上げたい。日本の民主化はまず小地域から、というのがわたしの平生からの主張なのである(9頁)」というフレーズがやはり印象的である。

また、こうした「まずは小地域から」の姿勢の背景には新居の個人主義があるように読める。「民主主義の基本は、なんといっても各個人が民主化することにある。そしてそれには個性の確立が前提条件である。いいかえると、個性の確立、個人の民主主義的自覚なくしては民主化の実体はありえない。
 民主主義は個人の民主化から、つぎに家庭から、隣近所から、部落から、村や小さな町からといった風に、小地域から確立してゆかねばならない(87-88頁)」と新居は語る。

こうした視点に立脚した新居の民主主義観は確かであり、「区議会は区民たちの生活に身近なものを協議するところだのに、きけば傍聴人は少ないし、ときにはないという。区民たちはいつ区議会が開かれるのか、そこにどんな風に協議がもたれているのかわからなかった。わたしはそれではいけないから、まず区議会のある日を区民一般にわからせる方法をとること、傍聴券をより多く発行してもらう。傍聴者が場内にあふれるようなら、拡声器を備え付けて戸外でも傍聴できるようにしたい(42頁)」というような個所など、まるで現代の議会改革にも通じるような問題意識である。

また、「この地区には学者、文化人、知識人が多く在住しているのであるから、わたしはゲーテや、シラーや、ヴィーラントやリストの住んでいたワイマールのような芸術的香気の高い地区にしてみたいと夢見た(211頁)」という「杉並を日本のワイマールに」ということばも有名であるが、そのなかに図書館や音楽堂、劇場などの構想だけでなく広場の構想があることに注目したい。新居は「駅頭が広場であってほしいのは、そこを人民討論場であらしめたいからだ。人々は集まって機智と理性の討論会たらしめ、選挙のときなどは意見発表の場所とも出来るからである(108頁)」と語っている。新居が目指したのは文化の香りが高いと同時に民主主義が息づくまちであったように思う。

しかし、そんな新居の民主主義、「条理主義」は区議会や役所とはことごとくぶつかったようである。旧態依然たる助役さんが
「わたしにはこんな部屋はいらん。何なら君がここを使い給え。わたしは受付の隣に頑張るから。陣頭指揮といった言葉はミリタリスティックでいけないから使わないが、市民への親和のためにそうする。市民が来て、受付氏に区長さんいますかと訊く。その隣に小さな卓を構えているわたしは答える。
―区長かい。わたしだよ。ここにいるよ」(114頁)。
「助役さん、わたしはあなたに仕えられているのではありません。民主主義の行政においては、役所内で仕えるということもない筈です。その言葉は民衆にたいしてはともかく、役所のうちではあなたもわたしも平等なのです」(118頁)などといわれ面食らったであろうことは想像に難くない。

こうして、新居はわずか1年ほどで杉並区長を辞任するが、その新居が「杉並市構想」を持っていたのは驚きであった。新居は「これというのも、特別区として都の衛星であるのに市制を布いていないからだ。よし俺は杉並のワシントンとなって都に反旗をひるがえし、杉並市独立の旗をかかげて戦うと宣言した。それには議員一同も大賛成で、面白い、真の民選区長は区長、君だけだよ、大いにやろうということになった(200頁)」と書いている。特別区の区長公選制はその後、一時廃止され区長公選を求める長い運動ののちに復活するが、この時、杉並市が実現していたらどうだったろうか。

ところで新居は生協運動家としての顔も持つが、本書でも少しだけ生協運動について触れたところがある。

「私たちが協同組合運動を終戦後に同志と共にはじめたとき、わたしたちが一人、犯人の栄養失調を防止することが出来るなら、わたしの仕事のことなんてどうだっていいではないか、とわたしは思った。それでわたしは協同組合運動を同志と共にはじめた。その運動は経済運動であって、政治運動ではもとよりない。
 だが日本の民主化のためにも、協同組合運動のためにも、政治力をもつ必要に迫られた。政治のあくまできらいな、政治といえば嘔吐を催す気味のあったわたしが、政治的蜃気楼を描き出したのだ(99頁)」。

「スウェーデンが組合国家といわれているように、私たちの居住区を組合区にしてみたい、と思った。碁盤の全面に隙間もなく布石するように、地区全面に生活協同組合を布石して、それを連合体に盛り上げ、そうすることによって完全な組合区にしたいというのが、わたしの一つのユートピアだった。ある意味からすると、わたしはそれを実現したいがために、あえて首長になったともいえるかもしれないのだ。事実、その意思はかなり実現の線に向かって行って、区内に相当数の生活協同組合が自然発生して行った(だが、それにはいろいろの原因と事情とがあって、少なからず壊滅し、残存せるものも気息奄々たるものが多い。私の夢は幻滅した)(211頁)」。

といった具合だ。ここからは新居の生協運動への並々ならぬ意欲が見て取れるが、同時に、経済すなわち私たちの日々の生活と政治が密接に結びついていること、そして生活を改善するためには政治運動が必要であるという指摘は、慧眼であると思うし、現代にも通じるところであろう。

最後に、本書でもっとも印象的なのは、新居の子どもや女性の生活へ向けられる眼差しである。例えば、
「新しい憲法はかがやかしい。それであるにもかかわらず、黒い陰影のように女性の哀史がいくらでも残存しているのは、痛ましくもまたさびしい。
 わたしは、その種の例をいくらでも挙げることが出来るけれど、むしろ、今はそれと対蹠に立つ女性たちの生活を見たいのである。そしてその種の生活姿態を描いていくことがどれだけ楽しいことかわからないのだ。
 もう事実上の、いかなる意味合いでもの女奴隷は一人でもあってはならない。明るい生活の女性たち、理論からいっても、実際から見ても、本当にありえていい女性たちの生活の姿がみたいものである(52-53頁)」
というような記述からもそれは読み取れる。新居が指導を受けたという吉野作造も晩年に至るまで家庭購買組合に関わり続けたが、その背景には同じような女性の生活への眼差しがあったように思う。それは同時に、民主主義の担い手としての女性への期待でもあったはずだ。

新居格『杉並区長日記ー地方自治の先駆者・新居格』(2017年、虹霓社)

亀戸事件と平澤計七

2015-09-03 23:10:00 | 生協・協同組合
92年前の今日、1923年9月3日、東京府南葛飾郡亀戸町で、社会主義者が亀戸警察署に捕らえられ、刺殺された亀戸事件が起こった。

亀戸事件 - Wikipedia

この亀戸事件の犠牲者の一人に平澤計七という労働運動家がいた(以下、山本秋『日本生活協同組合運動史』(1982年、日本評論社)184-193頁による)。平澤は明治22(1889)年、新潟県魚沼郡小千谷町の生まれ。日本鉄道大宮工場の職工見習教場に入り鍛冶工となった。当時から文芸的才幹を発揮、小山内薫の門を叩く。後に鉄道院新橋工場を経て浜松工場に移るが、大正5(1916)年、友愛会の活動への参加を志して上京、東京スプリング製作所に就職した。そのころ友愛会の機関誌『労働及産業』の懸賞感想文に入選、友愛会の大島支部、江東支部の組織化に成果を上げ、鈴木文治に認められ本部書記兼出版部員に抜擢された。大正7年10月には渡英する野坂参三の後任として出版部長となる。

大正8(1919)年、友愛会は大日本労働総同盟友愛会と改称したが、平澤は急進化する幹部との間に摩擦を生じ、出版部長を辞任させられ、友愛会での肩書は兼任していた友愛会城東連合会の会長のみになった。そして大正9年、友愛会関東大会で平澤に対する弾劾決議が可決されると、城東連合会員約300名とともに友愛会を脱退、純労働者組合を結成した(純労働者組合の純とはインテリ階級の介入を排除し、純労働者のみによって組織運営する組合の意味)。

この純労働者組合の労働者たちが大正9(1920)年10月、岡本利吉を講師とした労働問題講習会を開き、そこで岡本が話したイギリスのロッチデール公正先駆者組合の話に感銘を受け、同年10月29日に設立されたのが戦前の関東の消費組合(現在の生活協同組合)運動の先駆のひとつとなった「共働社」であった。

いわば平澤は日本の生協運動のパイオニアの一人ということができる。

平澤計七 - Wikipedia

関東大震災が起こると、平澤は純労働者組合と共働社の組合員でのちに長く関東消費組合連盟の有力な指導者になる正岡高一宅が全焼したのを自宅に引き取り、行方不明になった正岡の妹を探して上野から浅草まで歩き回った後、夜警に出てから自宅に帰った。ちょうどそのころに制服巡査が5,6人来て「まことに済まんが、警察まで一寸来て呉れといい、『ハイ』と言いおとなしく出ていきました」といった具合で連行され、その夜虐殺され二度と帰ってこなかった(山本前掲書218-219頁(引用部は亀戸事件建碑実行委員会編『亀戸事件の記録』よりの孫引き))。

※藤田富士男・大和田茂『評伝平澤計七』(1996年、恒文社)をもとに一部補筆。