原爆投下を「しょうがない」と発言した久間防衛大臣が辞任した。
マスコミ、被爆者団体、野党から「原爆投下を容認するのか?」と集中砲火を浴びせられた末、参院選への影響を懸念してやめさせられた格好だ。しかし、どうも政争の具にされた感が否めない。個人的にはこの発言は結構重要な意味を持っていたような気がしてならない。
まず久間発言がどのようなものであったかを考えておきたい。
まず各種報道を見ると問題の発言には「米国を恨む気はないが、勝ち戦と分かっている時に原爆を使う必要があったのか」という一節があったということは各誌が報じている。その上でソ連の参戦をとめられる。結果としてドイツのように日本が分断国家になることが避けられた。そのようなことを勘案すれば原爆投下は「しょうがなかった」ということのようである。
各紙の報道はそれぞれ読売、毎日、朝日。
そして、大臣辞任後の各紙の社説が興味深い。
朝日は「防衛相辞任―原爆投下から目をそらすな」と題し辞任は当然という論調。
毎日の「久間氏辞任 心からの反省が伝わらない」という社説も同様である。
これに対し読売の「防衛相辞任 冷静さを欠いた「原爆投下」論議」という社説は冷静に議論する必要を訴えていて興味深い(小沢批判に結構なページが割かれているので民主党への牽制という意味合いがあるのだろうけど)。
さて、ぼくが久間発言を擁護したいという気になるのは読売的な文脈とも少々違う。読売の社説では、問題の講演においても久間氏が原爆使用に対し疑義を呈していたこと、「そもそも、原爆投下という悲劇を招いた大きな要因は、日本の政治指導者らの終戦工作の失敗にある」ことに久間発言擁護の論拠を見出している。つまりもう少し早く降伏していれば、原爆投下はなかった、その意味では「しょうがない」と言えるのではないか、という論である。
これをもう少し深めて考えてみたい。そもそも、アジア・太平洋戦争をおっぱじめたのはどこの国なのかという問題である。それは言うまでもなく日本である。村山談話の言葉を借りれば「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たのである。原爆投下が戦争における武力行使の一部である以上、終戦工作云々のみならず、そもそも侵略戦争をはじめていなければ、原爆投下という悲劇は起こらなかった。その意味で原爆投下には「しょうがない」側面があるのではないか、これがぼくの考えである。
いみじくも朝日が上記の社説において「悲惨な被爆体験は戦後日本の原点にかかわるもの」という表現をしているところに問題の根幹が表れている。本来、戦争の加害者であった日本国民は「ヒロシマ・ナガサキ」によって自らを被害者に転化し戦後60年、戦争責任を曖昧なままにしてきた。いわば「被害者ナショナリズム」とでもいうべきものが出来上がってしまったのではないか。有名なヴァイツゼッカー演説の一節、「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」というような「高み」へ日本国民が到達する機会は失われてしまったのである。今回の「しょうがない」発言はそれに一石を投じる可能性があったのではないか、そんな気がしている。
それにしても、以前のイラク戦争批判「失言」といい保守傾向の強い安倍内閣の中では随分と左よりな「失言」が目立つ大臣であった。
マスコミ、被爆者団体、野党から「原爆投下を容認するのか?」と集中砲火を浴びせられた末、参院選への影響を懸念してやめさせられた格好だ。しかし、どうも政争の具にされた感が否めない。個人的にはこの発言は結構重要な意味を持っていたような気がしてならない。
まず久間発言がどのようなものであったかを考えておきたい。
まず各種報道を見ると問題の発言には「米国を恨む気はないが、勝ち戦と分かっている時に原爆を使う必要があったのか」という一節があったということは各誌が報じている。その上でソ連の参戦をとめられる。結果としてドイツのように日本が分断国家になることが避けられた。そのようなことを勘案すれば原爆投下は「しょうがなかった」ということのようである。
各紙の報道はそれぞれ読売、毎日、朝日。
そして、大臣辞任後の各紙の社説が興味深い。
朝日は「防衛相辞任―原爆投下から目をそらすな」と題し辞任は当然という論調。
毎日の「久間氏辞任 心からの反省が伝わらない」という社説も同様である。
これに対し読売の「防衛相辞任 冷静さを欠いた「原爆投下」論議」という社説は冷静に議論する必要を訴えていて興味深い(小沢批判に結構なページが割かれているので民主党への牽制という意味合いがあるのだろうけど)。
さて、ぼくが久間発言を擁護したいという気になるのは読売的な文脈とも少々違う。読売の社説では、問題の講演においても久間氏が原爆使用に対し疑義を呈していたこと、「そもそも、原爆投下という悲劇を招いた大きな要因は、日本の政治指導者らの終戦工作の失敗にある」ことに久間発言擁護の論拠を見出している。つまりもう少し早く降伏していれば、原爆投下はなかった、その意味では「しょうがない」と言えるのではないか、という論である。
これをもう少し深めて考えてみたい。そもそも、アジア・太平洋戦争をおっぱじめたのはどこの国なのかという問題である。それは言うまでもなく日本である。村山談話の言葉を借りれば「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たのである。原爆投下が戦争における武力行使の一部である以上、終戦工作云々のみならず、そもそも侵略戦争をはじめていなければ、原爆投下という悲劇は起こらなかった。その意味で原爆投下には「しょうがない」側面があるのではないか、これがぼくの考えである。
いみじくも朝日が上記の社説において「悲惨な被爆体験は戦後日本の原点にかかわるもの」という表現をしているところに問題の根幹が表れている。本来、戦争の加害者であった日本国民は「ヒロシマ・ナガサキ」によって自らを被害者に転化し戦後60年、戦争責任を曖昧なままにしてきた。いわば「被害者ナショナリズム」とでもいうべきものが出来上がってしまったのではないか。有名なヴァイツゼッカー演説の一節、「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」というような「高み」へ日本国民が到達する機会は失われてしまったのである。今回の「しょうがない」発言はそれに一石を投じる可能性があったのではないか、そんな気がしている。
それにしても、以前のイラク戦争批判「失言」といい保守傾向の強い安倍内閣の中では随分と左よりな「失言」が目立つ大臣であった。