つらねのため息

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

『神々の明治維新』

2016-08-30 10:31:00 | 日本のこと
先日、実家で発掘してきた安丸良夫『神々の明治維新』(1979年、岩波新書)を再読。神仏分離、廃仏棄釈にしなやかに抵抗した真宗教団のしたたかさが印象に残った(それすらも取り込んでしまったナショナリズムの問題こそが同書のメッセージだろうが)。

それにしても、東西本願寺で維新時の政治姿勢が異なっていたとは知らなかった。我が家は大谷派なので、少し佐幕派よりだったのかな。




松浦周太郎

2015-11-01 16:43:00 | 日本のこと
利尻島に寝熊の岩と呼ばれる自然の岩がある。熊が寝ているように見えるその形から名づけられたものだが、その横に寝熊の岩の石碑があり、松浦周太郎が揮毫したとある。

調べてみると、松浦周太郎は地元(中選挙区時代の北海道2区)選出の衆議院議員で労働大臣や運輸大臣を歴任した自民党三木派の重鎮という。興味をもって伝記の類を探してみたところ、岸本翠月『松浦周太郎伝』(松浦周太郎先生顕彰会、1971年)という本が見つかった。しかし、この本、周りの証言や本人のメモワールを断片的に収集・総合したもので、いくら読んでも断片的にしか経歴がわからない。そこでWikipediaの松浦周太郎の項を参考に、同書で補ってみる。

松浦周太郎 - Wikipedia

松浦周太郎は1896(明治29)年5月2日、現在の北海道八雲町で小作人の子として生まれる。幼い頃に現在の美深町に移住。恩根内小学校を卒業したが、在学中から家業の農作業を手伝い、小学校も一日おきと雨の日に通学するというような状況であったという。卒業後は中学講義録を取り寄せ独学していた。また、一時期胃を痛めて東京の長与胃腸病院に入院していたが、その際隣のベッドにいたのが夏目漱石であった。大正4年、漱石が『道草』を書いていたころという。

この快復の際、救世軍の街頭宣伝によって信仰を得た松浦は1920(大正9)年、洗礼を受けキリスト教に入信。昭和6年には賀川豊彦を招いた講演会なども開催している。

1921年には木材会社を設立し軌道に乗せる。美深町議(1929年)、北海道議(1932年)を経て、1937年立憲民政党から旧北海道2区にて第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選(この時の当選同期に三木武夫がいた)。以後当選12回。民政党では鶴見祐輔の片腕的存在となる。

翼賛選挙で当選したことなどから戦後、公職追放となるが、追放解除後は1952年改進党から中央政界に復帰し、同党副幹事長となる。保守合同後は松村・三木派に所属する。1956年石橋内閣で労働大臣、1964年第3次池田内閣改造内閣で運輸大臣を歴任している。

三木武夫は『松浦周太郎伝』に寄せた「序」のなかで松浦を「政治生活を通じて得たかけがえのない友人」であり「改進党から自由民主党に至るまで苦労を共にしてきた同志中の同志」と紹介している。三木は松浦の「熱心なクリスチャンのプロテスタントの信者として、強い宗教的信念が人生観のバックボーンになっている」とし、その謙虚で誠実な人柄を高く評価し、「日本政治の良心とも称すべき政治家」と呼んでいる。この誠実さは多くの人に評価される松浦の美点だったようで、石橋湛山も同じく同書に寄せた「序」で「私は術策を弄する政治家を嫌う。松浦君は裏も表もない誠意と善意に溢れた政治家である」と述べている。

小学校教育も十分に受けていない人が(松浦自身、衆議院在職25年の表彰を受けた際、「私は、北海道開拓者の子として生まれ、幼時より開拓に従事いたしましたために、小学校も満足に卒業することができなかったのであります」と述べている)、身一つで木材会社を興し、大臣にまで上り詰めるという立志伝中の人物であるともいえる。そうした人物が同時にクリスチャンであり、党内左派と言える三木派の重鎮として活躍していたというあたりに、戦後保守政治の分厚さの一端を見る思いがする。

国民協同党をルーツとする三木派と農村との関係なども含め、いろいろと気になるところである。

「権力の市民化はできるのか」

2015-07-22 22:39:00 | 日本のこと
『社会運動』No.419(2015年7月)の辻元清美インタビュー「この危機に立ち向かうには」を読む。一言で感想を言えば、この人は市民運動の強さとその限界を知り、市民運動が権力の中に入っていくことの意義と苦しみを理解していると強く思った。

辻元のテーマであるという「権力の市民化はできるのか」という問いは深く、悩ましい。辻元がドイツ緑の党を引き合いに語るように、市民運動を基盤とした政党が政権党になった際に、あくまでも自らの要求を貫こうとする市民運動と、調整の場である政治の中で責任を負わなければならない政権党の立場との間で相克が生じるのはやむを得ない。しかし、その相克を乗り越えることができるように、この国の市民社会は成熟していかなければいけないのだろう。

そうした成熟した市民社会を草の根からつくりあげていくことが安倍政治的なものに対抗するうえでも有効なことは論を俟たない。

そういう問題意識を持つ政治家がいることはこの国の市民社会の希望だ。日本にもヨシカ・フィッシャーはいるのだ。



『ペンの自由を貫いて―伝説の記者・須田禎一』

2015-05-12 23:32:00 | 日本のこと
小笠原信之『ペンの自由を貫いて―伝説の記者・須田禎一』(緑風出版、2009年)を読む。



須田禎一は1909年茨城県の牛堀の生まれ。地元の名家に生まれ、佐原中学、弘前高校を経て東京帝国大学文学部独文科へ入学。学生運動での逮捕などをはさみ東京帝大を卒業後、風見章の紹介で朝日新聞へ入社。浜松支局や上海支局で記者として活動する傍ら、風見や細川嘉六、尾崎秀実らのグループにも参加している。

上海で終戦を迎え、戦後は木村禧八郎の後を襲って北海道新聞の東京駐在論説委員に就任。中立を志向する全国紙をしり目にリベラルで明快な論調で社説やコラムを執筆。昭和の時代を駆け抜けた、ジャーナリストである。

本書はその須田禎一の伝記である。

本書を通じて気づかされるのは、須田の時代と現代が驚くほど通底しているという点だ。須田は破防法の制定に「言論の委縮」「思想警察の復活」「『国権の最高機関たる国会』が行政権の前に蒼ざめて」いく可能性を見て取り、そうなれば「民主日本の墓場である」と警告する(本書152-153頁)。

また、「金嬉老事件」を論じた文章では「朝鮮人には乱暴者が多い、犯罪者が多い、オレたちの税金を食う被保護世帯が多い、そのうえ自分たちの学校では日本人の悪口を教えている、けしからん」という「“素朴な”感情が」「広く日本人の社会に流れているのは、残念ながら否定できない」と事件の背後にぬきがたい「朝鮮人・韓国人蔑視」がったことを喝破する(本書283-285頁)。

昨今のこの国の政治や社会の情勢となんと重なることだろうか。

1965年の須田の退社にあたっての一文にある「権力の座にあるものが、おのれに対する批判を好まないのは、通例でしょう。言論人が権力の座にあるものから憎まれるのも通例でしょう。もし権力者から愛される言論人があったとすれば、権力者か言論人か、そのいずれかが異常な場合でしょう」という一節は当時においても痛烈な現状批判であったろうが、現代においてますますその重要性を増している警句であろう(本書284-285頁)。

60年安保の際に須田が書いたという「あの人々のいう民主主義は、私たちの民主主義ではない。あの人々のいう自由と繁栄には墓場のにおいがする」という言葉も、その言葉が向けられた人物の孫が首相官邸の主になっても、そのまま通じる言葉だ(本書206-208頁)。

しかし、須田は続ける。「すべては終わった、のではない。すべては、これからはじまるのだ」と。戦争の記憶も生々しいこの時代、市民社会にかかる圧力は今と変わらなくとも、守るべきを守り、主張するべきを主張した、須田のような言論人たちによって戦後民主主義はまだ、その生命力を保っていたのである。

ところで、本書で個人的に注目するのは須田の上海時代である。上海ではあまり記事を書かなかった須田だが、様々な人物と接触していて、そのなかに当時、「須田が同業者の中で最も親しくしていた」という「『大陸新報』の小森武」なる人物が出てくる(本書91-92頁)。のちに小森らが設立し美濃部亮吉革新都政のけん引役となった東京都政調査会での活動をきっかけに、日本の市民運動をリードしていく人物こそ須田禎一の次男、須田春海であった。

※東京都政調査会と小森武については鳴海正泰関東学院大学名誉教授による「覚書 戦時中革新と戦後革新自治体の連続性をめぐって-都政調査会の設立から美濃部都政の成立まで-」『自治研かながわ月報』2013.6.No.141(通算205号)に詳しい。

蟋蟀は鳴き続けたり嵐の夜

2014-09-10 23:03:00 | 日本のこと
いまの『東京新聞』は桐生悠々がいた頃の『信濃毎日新聞』のようだというwebでの書き込みを見て興味がわき、井出孫六『抵抗の新聞人 桐生悠々』(1980年、岩波新書)を読んでみた。

桐生悠々は1873年、旧加賀藩の下級藩士の家に生まれた。旧制四高、東京帝大法科を卒業後、いくつかの職業を移り、1902年、『下野新聞』の主筆となる。その後、『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』などを経て、1910年に『信濃毎日新聞』主筆に就任。明治天皇の死に際しての乃木希典陸軍大将の殉死を批判した「陋習打破論」が評判を呼ぶ。しかし、その後、紙面で政友会批判を繰り広げたことが、政友会の代議士でもあった信濃毎日新聞社長の小坂順造との対立を招き退社、名古屋の『新愛知新聞』の主筆へと転じる。

大正デモクラシーの中、悠々は、同じく政友会系であった『新愛知』と憲政会系の『名古屋新聞』との論争の中に身を置いたが1924年に退社、1928年に『信濃毎日』の主筆に復帰する。しかし、1933年8月、折から東京で行われた防空演習を批判した社説「関東防空大演習を嗤ふ」が在郷軍人の組織、郷軍同志会などの怒りを買った。信濃毎日新聞は抵抗したものの、不買運動も辞さないとする圧力を受け、悠々の退社を余儀なくされた。

信濃毎日新聞退社後、悠々は名古屋に戻り、新着洋書の紹介や悠々の筆による時事論などを掲載した個人雑誌『他山の石』を発行する。たび重なる発禁処分に耐えながら軍部批判を続けたが、1941年9月10日死去、「小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」という挨拶をのこして『他山の石』も廃刊した。

悠々は最初の信濃毎日主筆時代、大逆事件の報道を禁止した当局を厳しく批判し、新名古屋では米騒動の報道を禁じた寺内内閣の打倒を呼びかけるなど、その思想はリベラルな自由主義であった。その反軍的な姿勢は戦争の足音が近づく当時においては際立っている。社説「関東防空大演習を嗤ふ」も、そうした悠々の立ち位置から見れば自然なものとすらいえるかもしれない。この社説は防空演習が想定したような東京上空で空戦があるような事態があれば、すでに東京には空襲が行われていることになってしまい、木造家屋の多い東京市は焦土と化すであろうこと、市民の狼狽を呼び起こし阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東大震災と同様の地獄が繰り返されるであろうことなどを12年後の東京大空襲の事態を的確に予想し、空襲に先立って敵を撃退することこそが重要であり、防空演習が「さほど役立たないであろうこと」を予想するものであった。その全文は下記リンク先から読めるが、その筆致は理知的、論理的であり、当時においてもそれほど大きな問題であったとは思われない。しかしその題名のうち「嗤ふ」の字が特に軍人の怒りを買ったと言われる。井出孫六は例えば「『関東防空大演習を評す』とでもしておけば事は荒立たずにすんだかもしれない」が「嗤う」という表現は軍部の台頭によって言論の自由が失われて行く当時にあって悠々の「主張そのものであった」と指摘している。

桐生悠々 関東防空大演習を嗤う(青空文庫)

悠々は軍部の台頭によって社会の自由が失われて行くなかで、それに抵抗した反骨のジャーナリストであった。この記事の表題にも掲げた悠々の句「蟋蟀は鳴き続けたり嵐の夜」はまさにその姿勢を表したものと言える。

そして、興味深いのは悠々のこうした姿勢を支えた人たちが多くいたことである。悠々は信濃毎日を追われた後個人雑誌『他山の石』を発行しているが、その支援者には信濃毎日新聞社長の小坂順造、新愛知時代の悠々の論敵、名古屋新聞の与良松三郎、第六代住友総理事小倉正恒、「電力王」松永安左エ門、名古屋医科大学の教授で西園寺公望の主治医でもあった勝沼精蔵、安宅産業の創設者であった安宅弥吉、第一法規出版創業者で長野商工会議所会頭・衆議院議員などを務めた田中弥助(美穂)のほか、尾崎行雄、芦田均、風見章、福沢桃介、岩波茂雄といった人々もいる。特に、名古屋を中心に多くの財界人が支援者に名を連ねているのは時代背景を考え合わせると興味深い。

悠々は晩年、信濃毎日時代を振り返り、「信州は言論の国であった。信州人は人の知る如く理知に富んだ、極めて聡明な民だから、この民の棲んでいる信州が言論の国であるに不思議はない。従って信州は私たち言論者即ち論説記者に取っては、殆ど理想的の国であった。私はここに「あった」と言って「ある」とは言わない。そしてそう言われ得なくなったことを悲しむもの、然り衷心より悲しむものである」と述べている。

「日本は言論の国であった」ということがないように、この抵抗の新聞人の伝記をその命日に紹介したい。