つらねのため息

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

頚城八谷考

2010-04-18 19:21:00 | くびき野
以前の記事で「頚城八谷」について少し調べたことを書いた。

その後、色々調べていたところ『訂正越後頚城郡誌稿』なる書物があることを発見した。幸いにして大学図書館で同書を入手したので、そこから「頚城八谷」についての記述をいくつか見てみたい。

なお、序によると『訂正越後頚城郡誌稿』とは16名の旧高田藩士が旧藩関係の資料が隠滅し、記憶が薄れるのを心配して、資料収集を行い明治34年に原稿浄書に至った「越後頚城郡誌稿」を文学者の相馬御風と歴史家の布施秀治が補正朱書したものとのことである。現在、古書として流通しているものは、これを底本にして昭和44年に「越後頚城郡誌刊行会」が上下巻及び付図の三点を刊行したもののようである。

さて、同書の第一章「地勢・名称・石高」の冒頭に「地勢名称考」なる文章がある。それによると「又西浜ニ七谷ノ称アリ。又東山ニ保倉谷アリ。是ヲ頚城郡ノ八谷ト称シ郷ニ十四郷アリ(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻39ページ)」という一文がある。

つまり、同書に従えば、西浜七谷と保倉谷を合わせて頚城八谷と呼ぶということで間違いはなさそうである。

続いて「国郡庄保郷名称考」という文章がある。
その中に「現在郷名」として

――以下引用――

川西谷 西浜七谷ノ一ツナリ。一名今井谷トモ云。
根知谷 同
西海谷 同
早川谷 同
能生谷 同
名立谷 同
桑取谷 同
是ヲ西浜七谷ト称ス。然シテ七谷往古ハ庄保ヲ以テ称セシニ何レノ世ヨリカ谷ト称スルト雖モ、其時代ヲ審ニセス。
(中略。郷名が続く)
保倉谷 山五十公郷・下美守郷・松ノ山郷等ノ間ニアル小谷ナリ。
(中略。郷名が続く)
右当郡拾三郷八谷(西浜七谷東山一谷)ヲ以テ郷里ヲ区別ス。
(以下略)

(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻44~45ページ)

--引用終わり--

との記述がある。
これによれば、「川西谷・根知谷・西海谷・早川谷・能生谷・名立谷・桑取谷」で西浜七谷ということで間違いはなさそうだ。

なお、上記の引用では「拾三郷八谷」となっているが、そのあとの省略したところの記述では松平光長の時代に当時「八谷拾郷」だったものを「拾五郷八谷」に再編したとの記述があるので「拾三郷」ではなく「拾五郷」が正しいのかもしれない。なお、「此改革ハ小栗美作ノ大功ナリト伝フ。(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻45~46ページ)」とのことである。

ちなみにそこでは「西浜六谷」という表現があり、根知谷は当時「荻田領ニテ組外ナリ」と記されている。越後騒動で小栗美作と争った荻田本繁は、高田藩の家老であり糸魚川清崎城代を務めた家柄であることから、荻田領とはこの糸魚川領に入っていたことを示すものと思われる。

まとめれば「頚城八谷」のうち保倉谷を除く「川西谷・根知谷・西海谷・早川谷・能生谷・名立谷・桑取谷」の七谷を「西浜七谷」といい、そのうち松平光長時代に糸魚川領であった根知谷を除く六谷を「西浜六谷」と呼ぶということらしい。

今後も、もう少し『訂正越後頚城郡誌稿』から考察を深めてみたい。

「たちあがれ日本」について

2010-04-11 23:10:00 | 日本のこと
こういうよくわからない政党ができてしまうということが、自民党政治の終焉を物語っているのだと思う。結局のところ、自民党の凝集力というのは政権党であることにあったということなのだろう。政権から落ちてしまえば、あとはてんでバラバラになってしまうというのはどうしようもないことなのかもしれない。

しかし、バラバラになってしまうにしてもなりかたというのがある。

思想的にいえば自民党には大きく言えば三つくらいの潮流があるように思っていて、(1)タカ派的思想保守(福田派など)、(2)自由主義(かつての三木派など)、(3)そしてその間にある旧田中派的利権保守位に分類できるのではないだろうか。このうち(3)の田中派的な人々は何よりも政権党であることに意義を見出す人たちだから、政権党でなくなった以上、徐々に勢力を失っていく(小沢一郎のように民主党に行ったりすると言えるかもしれない)。だから有権者からしてみれば(1)タカ派保守自民党と(2)リベラル自民党に分かれてくれた方がわかりやすく投票しやすい。みんなの党は(今のところ)成功した後者の一派生と言えるかも知れない。

平沼新党もタカ派保守新党になっていればもう少しわかりやすかっただろうし、もうちょっと支持を受けやすかったのではないだろうか。

では、なぜこうわかりにくいことになったのだろうか。

リベラルっぽい与謝野、園田両氏から、タカ派の平沼氏まで、よくいえば間口の広い、悪く言えばバラバラの新党ができてしまった。

これは自民党の政治家が、いまだに政権交代という事実を理解していないということなのではないだろうか。というのも、恐らく彼らは自民党が分裂すれば民主党も分裂すると思っているのだ。つまり、彼らは政界再編を目指しているのだろう。その時、ガラガラポンで二大政党ができたとき、右寄りの党にはかつての自民党くらいの思想的幅の広さ(つまり平沼氏から与謝野氏まで)があっても確かにおかしくはない。

多くの有権者が感じている(至極常識的な)違和感を当事者が(強弁にしろ)まったく感じていないというのは、そういうことができると彼らが夢想しているからだと思う。

というのも自民党の中では派閥領袖クラスの彼らのような政治家がついてくれば、子分が付いてくるのは当たり前だったからだ。彼らは「実力者」である自分たちが新党を結成すれば自民党からも民主党からも一定程度の人たちが集まってきて、政界再編の核になりうるという幻想を抱いているのだ。

けど、言うまでもなく、そんなことは今の状況下ですぐできることではないし、何よりもあの老人たちについて行ってそれを成し遂げようという人はいないだろう。

つまり、何か合理的な行動と言うよりも、政治の新しい動きについていけなくなった、自民党的常識しか持ち合わせていない人たちの、哀れな末路という気がしてならない。

policy-orientedな政界再編なんて、完全比例代表制にでもしないとまず無理なんだろうなあ…。

ところで、Y武さんに「『フォルツァ・イタリアかよ!』というツッコミが日本中の欧州政治学者の間で飛び交っていると思う」と言わしめた党名については、twitterか何かで見た「首都大学東京」、「新銀行東京」に続いての固有名詞を後に持ってくるという都知事のワンパターンぶりは、文学者としてどうなのかというつっこみが一番面白いと思っている。

老人党」をなだいなださんにとられたのも痛かったのかな(笑)。

それにしてもA級戦犯の孫と反戦歌人の孫だからねえ(苦笑)。

江戸、無縁坂、講安寺

2010-04-03 23:30:00 | 日記
母が祖母から聞いた話によると、母の実家のお墓は現在のお墓の他に、館林、白河、姫路、村上と各地にあるらしい。

このうち館林には、祖母が存命中に訪れたことがあるらしい。
そしてそこのお寺で話を伺うと
「江戸、無縁坂、講安寺」に
お墓を移したとの記録が残っていたという。

最初、どこのことかわからなかった母であったが、
さだまさしの歌を思い出し、
不忍池から無縁坂を登って行ってみたところ、
実際に講安寺というお寺があった。

そこで話を伺うと
「そういう仏さんは随分前に無縁仏としてひとつにまとめてしまいまして」
と言われ、一応お参りをしてきたという。

実は、母の実家は、越後高田藩の藩士であった。
高田藩の藩主は榊原家といい、
徳川四天王のひとり、榊原康政を祖とする譜代の名家である。

この榊原家は江戸時代にはたびたび転封している。

上野国館林藩→陸奥国白河藩→播磨国姫路藩→越後国村上藩→播磨国姫路藩→越後国高田藩

以上のような変遷たどって越後高田藩に落ち着いている。

そしてこの無縁坂を挟んで講安寺の反対側にある旧岩崎邸庭園こそ、この榊原家の江戸屋敷であったところなのだ。

祖母からの記憶と歴史的事実がここまであえば、
おそらく間違いはない。

そういうわけで今日、講安寺へ行ってきた。

お寺の人に話を聞いてみると、やはり
「そういう100年以上前のものは全部無縁塔へ移してしまったんですよ」
とのこと。

そして、その無縁塔は巣鴨の庚申塚にある講安寺の墓地にあるという。

さっそく、帰りに寄って、この墓地も確かめてきた。

いずれ線香の一本もあげてこようかと思っている。

講安寺の枝垂桜