以前の記事で「頚城八谷」について少し調べたことを書いた。
その後、色々調べていたところ『訂正越後頚城郡誌稿』なる書物があることを発見した。幸いにして大学図書館で同書を入手したので、そこから「頚城八谷」についての記述をいくつか見てみたい。
なお、序によると『訂正越後頚城郡誌稿』とは16名の旧高田藩士が旧藩関係の資料が隠滅し、記憶が薄れるのを心配して、資料収集を行い明治34年に原稿浄書に至った「越後頚城郡誌稿」を文学者の相馬御風と歴史家の布施秀治が補正朱書したものとのことである。現在、古書として流通しているものは、これを底本にして昭和44年に「越後頚城郡誌刊行会」が上下巻及び付図の三点を刊行したもののようである。
さて、同書の第一章「地勢・名称・石高」の冒頭に「地勢名称考」なる文章がある。それによると「又西浜ニ七谷ノ称アリ。又東山ニ保倉谷アリ。是ヲ頚城郡ノ八谷ト称シ郷ニ十四郷アリ(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻39ページ)」という一文がある。
つまり、同書に従えば、西浜七谷と保倉谷を合わせて頚城八谷と呼ぶということで間違いはなさそうである。
続いて「国郡庄保郷名称考」という文章がある。
その中に「現在郷名」として
――以下引用――
川西谷 西浜七谷ノ一ツナリ。一名今井谷トモ云。
根知谷 同
西海谷 同
早川谷 同
能生谷 同
名立谷 同
桑取谷 同
是ヲ西浜七谷ト称ス。然シテ七谷往古ハ庄保ヲ以テ称セシニ何レノ世ヨリカ谷ト称スルト雖モ、其時代ヲ審ニセス。
(中略。郷名が続く)
保倉谷 山五十公郷・下美守郷・松ノ山郷等ノ間ニアル小谷ナリ。
(中略。郷名が続く)
右当郡拾三郷八谷(西浜七谷東山一谷)ヲ以テ郷里ヲ区別ス。
(以下略)
(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻44~45ページ)
--引用終わり--
との記述がある。
これによれば、「川西谷・根知谷・西海谷・早川谷・能生谷・名立谷・桑取谷」で西浜七谷ということで間違いはなさそうだ。
なお、上記の引用では「拾三郷八谷」となっているが、そのあとの省略したところの記述では松平光長の時代に当時「八谷拾郷」だったものを「拾五郷八谷」に再編したとの記述があるので「拾三郷」ではなく「拾五郷」が正しいのかもしれない。なお、「此改革ハ小栗美作ノ大功ナリト伝フ。(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻45~46ページ)」とのことである。
ちなみにそこでは「西浜六谷」という表現があり、根知谷は当時「荻田領ニテ組外ナリ」と記されている。越後騒動で小栗美作と争った荻田本繁は、高田藩の家老であり糸魚川清崎城代を務めた家柄であることから、荻田領とはこの糸魚川領に入っていたことを示すものと思われる。
まとめれば「頚城八谷」のうち保倉谷を除く「川西谷・根知谷・西海谷・早川谷・能生谷・名立谷・桑取谷」の七谷を「西浜七谷」といい、そのうち松平光長時代に糸魚川領であった根知谷を除く六谷を「西浜六谷」と呼ぶということらしい。
今後も、もう少し『訂正越後頚城郡誌稿』から考察を深めてみたい。
その後、色々調べていたところ『訂正越後頚城郡誌稿』なる書物があることを発見した。幸いにして大学図書館で同書を入手したので、そこから「頚城八谷」についての記述をいくつか見てみたい。
なお、序によると『訂正越後頚城郡誌稿』とは16名の旧高田藩士が旧藩関係の資料が隠滅し、記憶が薄れるのを心配して、資料収集を行い明治34年に原稿浄書に至った「越後頚城郡誌稿」を文学者の相馬御風と歴史家の布施秀治が補正朱書したものとのことである。現在、古書として流通しているものは、これを底本にして昭和44年に「越後頚城郡誌刊行会」が上下巻及び付図の三点を刊行したもののようである。
さて、同書の第一章「地勢・名称・石高」の冒頭に「地勢名称考」なる文章がある。それによると「又西浜ニ七谷ノ称アリ。又東山ニ保倉谷アリ。是ヲ頚城郡ノ八谷ト称シ郷ニ十四郷アリ(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻39ページ)」という一文がある。
つまり、同書に従えば、西浜七谷と保倉谷を合わせて頚城八谷と呼ぶということで間違いはなさそうである。
続いて「国郡庄保郷名称考」という文章がある。
その中に「現在郷名」として
――以下引用――
川西谷 西浜七谷ノ一ツナリ。一名今井谷トモ云。
根知谷 同
西海谷 同
早川谷 同
能生谷 同
名立谷 同
桑取谷 同
是ヲ西浜七谷ト称ス。然シテ七谷往古ハ庄保ヲ以テ称セシニ何レノ世ヨリカ谷ト称スルト雖モ、其時代ヲ審ニセス。
(中略。郷名が続く)
保倉谷 山五十公郷・下美守郷・松ノ山郷等ノ間ニアル小谷ナリ。
(中略。郷名が続く)
右当郡拾三郷八谷(西浜七谷東山一谷)ヲ以テ郷里ヲ区別ス。
(以下略)
(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻44~45ページ)
--引用終わり--
との記述がある。
これによれば、「川西谷・根知谷・西海谷・早川谷・能生谷・名立谷・桑取谷」で西浜七谷ということで間違いはなさそうだ。
なお、上記の引用では「拾三郷八谷」となっているが、そのあとの省略したところの記述では松平光長の時代に当時「八谷拾郷」だったものを「拾五郷八谷」に再編したとの記述があるので「拾三郷」ではなく「拾五郷」が正しいのかもしれない。なお、「此改革ハ小栗美作ノ大功ナリト伝フ。(『訂正越後頚城郡誌稿』上巻45~46ページ)」とのことである。
ちなみにそこでは「西浜六谷」という表現があり、根知谷は当時「荻田領ニテ組外ナリ」と記されている。越後騒動で小栗美作と争った荻田本繁は、高田藩の家老であり糸魚川清崎城代を務めた家柄であることから、荻田領とはこの糸魚川領に入っていたことを示すものと思われる。
まとめれば「頚城八谷」のうち保倉谷を除く「川西谷・根知谷・西海谷・早川谷・能生谷・名立谷・桑取谷」の七谷を「西浜七谷」といい、そのうち松平光長時代に糸魚川領であった根知谷を除く六谷を「西浜六谷」と呼ぶということらしい。
今後も、もう少し『訂正越後頚城郡誌稿』から考察を深めてみたい。