goo blog サービス終了のお知らせ 

つらねのため息

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

『物語 東京民医連史I』

2023-08-23 01:20:00 | 読書
先日、相方の荷物を引き取りに行った際に自分の荷物の整理で引っ張り出して物議を醸していたらしい『物語 東京民医連史I』。著者の増岡敏和は詩人でもある。

党派的なことはもちろんあるけれども、民医連や医療生協が、社会運動だったことがパラパラみているだけでもよくわかる。

「物語」なので扱いにくいところもあるけど、東京の民医連、医療生協運動の起こりを知る上では格好の著。




翁鬧「東京郊外浪人街 高圓寺界隈」

2019-05-03 23:39:00 | 読書
荻原魚雷さんのブログ「文壇高円寺」の「戦前の高円寺」と題するエントリーの中で、昭和十年代に高円寺に暮らし、モダニズム小説を発表していた翁鬧という台湾人作家の「東京郊外浪人街 高圓寺界隈」という作品が紹介されていた。ちょっと興味がわいたので図書館から同作が収録されている星名宏修(編)『日本統治期台湾文学集成5 台湾純文学集1』(2002年、緑蔭書房)を借り出してきた。

「東京郊外浪人街 高圓寺界隈」の出だしはこんな感じだ(なお、引用に当たってはできるだけ原文に忠実に引用したが、文字化けなどの関係で一部新字体に改めたほか、ルビ、傍点などを省略している)。

--以下引用--

 新市内に編入されたとはいへ、高圓寺はまだ何といつても郊外の感が深い。新宿からこちら、大久保、東中野とお上品な文化住宅區域を出外れて、大東京の土俵ぎはを想はせる中野からこの處まで来ると、一足飛びに全然異なつた雰囲気に捲き込まれる。第一街の構造からして皆悉違ふ。路幅が狭く、歩道といふものがなく、人と車と小競り合ひをしながら歩かねばならぬ。此の街の體裁は此處からずつと西の方、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪、吉祥寺とまで続く。併しそれらの街々の落付いてゐて如何にも郊外住宅地といつた感じが濃いのに較べて、こゝ高圓寺何とざわさわして浪人風情の人士の多いことか。

--引用終わり--

現在の我々が抱く高円寺のイメージが、この頃、すでにできていたことに驚く。ちなみに「浪人風情の人士の多い」理由はより新宿に近い街だと「生活程度が高く」、より西に行くと新宿へ出るのに電車賃がかかるためだという。今に続く高円寺の雰囲気というのは東京の西への拡大、とりわけ新宿の発展によっていたことがわかる。この高円寺の変化について翁鬧は以下のように記している。

--以下引用--

 六七年前までは-當時僕はこゝに居たわけではない。聞いたのだ-驛に立てば一望遮ぎる家並とてはなく、ずつと遠い田舎の畠まで眺められたさうだが、大東京の擴張と共に市内に編入されてから目ざましい蕟展を遂げて、今では驛からものゝ二十分も歩かなければ畠なぞは見られず、街のネオンサインもいと鮮やかに青春の血潮を湧き立たせるのに充分である。

--引用終わり--

「東京郊外浪人街 高圓寺界隈」の初出は台湾文芸連盟による『台湾文芸』第2巻第4号である。この号は1935(昭和10)年4月1日に発行されている。それから6,7年前という記述からも、高円寺など中央線沿線の発展が関東大震災以後、昭和初期のことであったことがわかる。井伏鱒二が「関東大震災がきっかけで東京も広くなったと思うようになった(『荻窪風土記』(新潮文庫版)13頁)」と荻窪に引っ越してきたのが1927(昭和2)年であった。この時期に中央線沿線は東京の拡大に伴って発展してきたのであろう。
ところで、1935年ともなると、日中戦争まで2年、軍靴の足音も高くなっているころのように思われるが、翁鬧の描く高円寺には、まだまだモダンな雰囲気がある。

--以下引用--

 思想にも審美にも富むと謳はれる高圓寺、瓦礫も多いが優れた人士も居ないではない。玉石混淆といへば、此の涯しもないやうな東京の街でさうでない處はなかろうが、それがこの高圓寺では一入身に沁みて感じられる。男女の學生、サラリーマン、ウエートレス、ダンサー、巴里歸りらしい畫家、おかつぱの文學青年、眼色の變つたアヴエツクのエトランゼエ、酔漢等々、寔に肩摩轂撃も啻ならぬ人浪に揉まれながら夕食後なぞ長い街を漫ろ歩いてゐると、殆ど毎日の様に出くはす文士が二人ある。新居格氏と小松清氏だ。

--引用終わり--

新居格はアナキストで作家。戦後、民選初代の杉並区長にもなる人物だが、既に高円寺の顔であったらしい。翁鬧は新居格について続ける。

--以下引用--

 高圓寺界隈の文士連の親分は何といつても新居格氏だ。彼の別名は高圓寺まるたし候。ステツキを持つて、黒いソフトを被つて、ぶらりぶらりと街をへいげいしながらてくつてゐる姿は、高圓寺の一風景たるを免れない。活動の番組が替はる毎に高圓寺館へ観にやつて来る。尤もそれはロハで、殊にチヤンバラが好きだとか。新居格氏とレーンボー、これは縷々ゴシツプにのぼる様だが、毎晩レーンボーで頑張つて居れば、三度に一度は新居先生に逢へること請合ひ。それほどレーンボーはあつさりした気の隔けない喫茶店だ。
「先生のゴーリキイの四十年を讀んだことがあります。」
 或晩レーンボーで新居先生に會ふと唐突僕は言つたものだ。
「へへゝ。」
と、先生は笑つて黒のソフトをちょこなんと阿彌陀被つた。あの何事にも物怖ぢしない、一見鈍重な舉動のいつたいどこに文壇随一の敏感な神經が宿つてゐるのであらう?

--引用終わり--

以下、当時の高円寺での文士たちの生活ぶりやバーや喫茶店などが描かれ、翁鬧自身も登場する。戦前の高円寺の雰囲気が伝わってくる小品だ。

参考:文壇高円寺「戦前の高円寺」

『日本におけるフィルムアーカイブ活動史』

2018-04-13 00:10:00 | 読書
石原香絵さんの『日本におけるフィルムアーカイブ活動史』(美学出版、2018年)読了。映画フィルムを収集・保存し、それへのアクセスを提供するフィルムアーカイブ。本書は日本のフィルムアーカイブ活動の歴史を国際的な視野も交えつつ描き出した一冊である。

石原香絵『日本におけるフィルムアーカイブ活動史』(美学出版、2018年)

「活動史」とタイトルにあるとおり、基本的には第1章から第5章までクロノロジカルに議論は進む。その中でも公的な支援態勢が弱い中で映画フィルムの保存に向けた関係者の奔走を活写した「第四章 川喜多かしこと戦後日本の〈映画保存運動〉」が圧巻だが、フィルムアーカイブという活動の始まりを論じる「第一章 フィルムアーカイブ活動の原点を求めて」、軍国主義の時代の映画の取り締まりと振興、保存を描いた「第二章 軍国主義時代の映画フィルム」、占領期におけるフィルムアーカイブの取り組みの可能性と蹉跌をたどる「第三章 日本映画の網羅的な収集はなぜ実現しなかったのか」などもそれぞれに面白い。

第1章で紹介されている、フィルムアーカイブの歴史の長さ(映画誕生の2年3か月後にはポーランドのボレスワフ・マトゥシェフスキによって世界初のフィルムアーカイブ論が論じられ1910年代には最初のフィルムアーカイブがヨーロッパにつくられていた)も驚きだが、第2章で論じられているファシズム・軍国主義と映画の一方では規制がありつつも他方で振興や保存が取り組まれていたという一筋縄ではいかない関係が興味深い。本書ではあまり触れられていないが、社会主義国でも似たようなことがありそうである。また「国際的」というとどうしても欧米に目が行きがちであり、実際国際的なネットワークは欧州やアメリカが中心のようであるが、中国と日本の映画界の関係も論じられていて、改めて隣国との距離の近さを感じさせる。ただし、満州の映画についても触れられているように、その「近さ」はもちろん単純な意味ではないが。

第4章は本書の主題ともいえ、さまざまなエピソードを交え「映画保存運動」の広がりが立体的に描かれているが、特に国際的な活動の広がりと同時に自治体や地域の市民の取り組みへの目配りがされ、その意義が強調されているところがとても良い。

それにしても、つくづく感じるのはこの国のものを残すことへの態勢の弱さであり、それを乗り越え取り組みを積み重ねてきた先人の足跡の偉大さである。恐らくそれは映画フィルムに限ったことではなく、文書や音を含むあらゆる記録にもいえるものであろう。本書354頁の著者の嘆息ともいえるような以下の記述は映画界だけではないこの国の現状を指弾していると言って差支えないように思う。

--以下、本書354頁より引用--

経年劣化が進行すると自然発火の危険性が増すナイトレートフィルム、強烈な酢酸臭を発するアセテートフィルムは本来的に脆弱な存在である。日本の場合、追い討ちをかけるように映画保存に不利な条件―関東大震災をはじめとする自然災害、映画検閲、太平洋戦争末期の空襲、敗戦時の意図的な証拠煙滅、GHQによる占領政策、映画の法定納入制度の不成立、映画産業の斜陽化、貧しい文化芸術予算と映画振興策の出遅れ等が押し寄せた。結果として、劇映画だけでも残存率は目を背けたくなるような数字を示し、残存する素材はオリジナルネガとは限らず、ましてや無傷の完全版ばかりではない。映画フィルムの物理的状態に、映画保存体制やフィルムアーカイブ活動の過去が反映され、スクリーン上に露呈してしまうのである。
 戦後日本の、〈映画保存運動〉が果敢に歩み出したとき、まだほとんどの日本映画は保存されている状態にはなかったが、その担い手たちは海外事情を知るにつけ、日本の惨状を度々「恥ずかしい」という言葉で表現した。「何とかしなければ」という焦りは、この運動を形づくり前進させた原動力の一つであったろう。現在、日本の公共フィルムアーカイブの映画フィルム専用収蔵庫等の設備や、保管されているコレクションの規模、そして映画の復元を支える民間の現像所の技術力は、海外と比較して何ら見劣りするものではない。しかし 一方で、公共フィルムアーカイブの正規職員の少なさには愕然とさせられる。本書では、ロシアのゴスフィルモフォンドの600名、中国電影資料館の340名、米国議会図書館の110名、韓国映像資料院の6O名といった職員の概数を例示したが、地域の公共フィルムアーカイブも含め、恒常的な人員不足が日本のフィルムアーカイブ活動の最大の弱点となっている。

--引用終わり--

これに対して日本の「フィルムセンターの正規職員数は長らく10名前後から増えず、いくら膨大なコレクションを構築しても、人員規模の上では諸外国との差を縮めることができなかった」(256頁)という。フィルムセンター自体も独立した組織ではなく東京国立近代美術館を母体として設置されたものであった。2018年4月に独立が果たされ国立映画アーカイブが設置されたのは「快挙」であったと著者は指摘する(306頁)。

著者は「過去を知れば知るほど、民間の貢献が日本のフィルムアーカイブ活動史に占める大きさを痛感させられる」(357頁)と記しているが、民間のとりわけ個人の取り組みに限界があるとはいえ、その運動の意義は高く評価されるべきものであろう。そうした「先人たちの積み上げてきたもの」がこうしてまとめられたこと自体、大きな意味を持つと思われる。そうした積み重ねを受け継いで(著者もそうした運動を受け継ごうとする人々の中の一人であろう)、著者が言うような「〈自主的参加型〉の『みんなのフィルムアーカイブ』を目指す」運動が広がっていくことを期待してやまない。