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情報を取捨選択することは個性を生む。
反対に情報の全てを取り込むことは個性を潰す。何が自分なのかを見失うし、自分なりの解釈と表現を捨て去ることでもある。情報は自分自身で判断して取捨選択しなければならないし、受け取った情報から別の何かを生み出してこそ初めて情報は生きてくる。当たり前のことだが、意外とみんな気づいていない。そして溢れかえる情報に振り回されている。
受け取った情報をそのまま利用しようとすると、
隅々まで忠実に再現しなければならない。情報の真意は情報の発信者にあり、メディアを使って伝達されたものはただでさえ中間過程で損失があり正確には伝わらない。より正確に伝えるにはそのまま忠実に再現しなければならない。その情報量は膨大になるし、たとえこの情報を誰かに伝えたとしても、それはただ媒介しただけで自分自身は全く表現されていないし、自身の意見も全くない。
受け取った情報を自分なりに理解すれば、
情報の内容は簡単な言葉で済んでしまう。その言葉に対する自身のイメージ空間が広がっただけである。そしてそれは自分のものとなり、その言葉を用いる時、理解し蓄積した知識がほとばしり出る。それは他人の知識でもないし、受け売りでも、伝達のための再現でもない。正真正銘の自己表現である。たぶん1冊の分厚い本を読んだ後でも状況は同じであろう。一文字一文字を忠実に拾うことが目的ではなくその作業を通して自分の中の知識イメージを膨らませているんだろう。
事実は事実である。
首と胴体が完全に分離しているという事実はその人は死んだという事実を伝えている。そこで問題になるのは果たして首と胴体が分離しているかという確認と、その情報を伝達している人が確かに現場に存在し現場を確認し確かな目で判断され忠実な表現で伝達されたかである。思い込みでも思い過ごしでも誤りであってもならない。三島由紀夫の割腹自殺の死亡確認はこのような現場報告からなされた。
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