オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

耳障りなもの、目障りなもの

2007年11月21日 | Weblog

この頃、巷に流れる音楽に変化が見られる。

 ひと頃流行した、ガンガン、ガチャガチャとうるさく、我々年輩者からすると歌とはほど遠いがなり立て絶叫していたものから、メロディーの美しい、透き通った声でしっとりと静かに語りかけるように聞かせる音楽が増えている。私の好みの音楽であり昔がよみがえったようでうれしい。流行は繰り返されるものだ。

不平不満と反逆、自暴自棄と暴力、退廃と虚無、

 そんな感覚を体現させたような音楽から、前向きで素直で平穏で優しく清純な感性を生かした音楽が受け入れられつつある。時代を反映し、時代が求めているのであろう。ただし、ちょっと触れるだけで壊れてしまいそうな脆さと、それにもめげずつっぱって何かをつぶやき訴えているような感覚を持つのは私だけであろうか?

相変わらずテレビは喧噪を極めている。

 そろそろ静かに訴え、冷静に聞き入り、鑑賞できるような番組造りも心がけたらどうだろう。これでもかこれでもかと繰り返し同じことを垂れ流す番組放送に耐えきれずに「もういい!」と思わずスイッチを切ったり、教育テレビに避難したりしているこの頃である。

週刊誌も過激だ。

 私は電車の吊り広告や新聞広告の見出しを見るだけで充分満足する。時々待合室などで暇つぶしに見ると、その内容は読者を刺激しっぱなしだが、よく考えると中身がない。要約すると何行かにまとまってしまうし、ほとんど斜め読みで済んでしまう。広告の見出しだけで充分だと改めて再確認する次第である。月刊誌はそれなりの内容があり、内容に応じて書店で購入している。あちこちと拾い読みが好きなので定期購読はしていない。

スポーツ新聞を電車で読んでいる人の中に、

 ヌード写真やポルノ小説、エロ記事が掲載されているページを周りを全く気にせず無心に読みふけっているのを見かける。これも目のやり場に困るし、思わずその人の無神経さと品性を疑ってしまう。読者に買ってもらうためにこういう記事を載せる新聞社も考えものだが、こういうしろものは大衆の面前でなくどこかで人知れずこっそりと読んでもらいたい。特に女の人は周りにこんな人がいたら困るであろう。読むなとは言わない。しかし、周囲の人は当然そう言う目であなたを見ているということをお忘れなく。

町中の商店街や観光地などの無神経な音楽の流しっぱなしも、

 うるさいだけでやめてもらいたいもののひとつである。なくしたらどんなにか静寂が取り戻せるのに、流しておかないとにぎやかさが演出できないと思い込んでいるようである。訪れる人は喧噪を期待していない。特に、自然の景観がすばらしい観光地で、野外スピーカーから、音質の悪いしかも趣味の悪い音楽が聞く人もない空間に絶え間なく一日中空しく垂れ流されているのは自然破壊である。静寂に不安を感じているのは売らんかな商売に徹している人種だけであろう。勇気をもってやめてもらいたい。

暴走族や、暴走族もどきも困ったものだ。

 こんな田舎でも暴走族を時たま散見する。また、暴走族になりきれない「にわか暴走族もどき」が騒音をまき散らしている。バイクのマフラーをいじって、わざと迷惑な騒音が出るように細工して、得意気に意味もなくアクセルをふかしながら乗り回している。どう見ても他人の迷惑を故意に楽しんでるとしか言いようがない。昼間ならまだ許せるが、夜中にやられると、死刑にしたいくらい腹立たしい思いがする。幸いこういう人種は、夜中に遊びすぎて明け方から早朝は苦手らしく、朝方の貴重な静寂は今のところ辛うじて保たれている。

この人達は、

 ふだんは周りの人から、全く無視されているようなかわいそうな人種だろう。こんなことでしか自分の存在を表現できず、こんなだだっ子みたいな自己主張しかできない憐れむべき人種である。もっと、別の方法があるのではないか、これだけのエネルギーを他のことに使えばひとつの仕事を成し遂げることができるような気もする。やるのは自由だが、他人に迷惑をかけないようにやってもらいたい。他人に迷惑をかけることが目的であるなら、これはれっきとした犯罪である。断固取り締まってもらいたい。

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