オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

若者の没個性の蔓延と大人の手抜き教育の罪

2008年03月26日 | Weblog

若者の間で「ダサイ」という言葉がよく使われる。

 「ダサイ」の客観的な評価基準はなさそうで、本人の主観と思い込みに基づいて発せられる表現のようだ。反対に「カッコイイ」というのも同じだ。そしてその中間に「ナンカヘン」がある。この三つの言葉をよく分析してみると若者の「個人」と「集団」の関わり合いが見えてくる。

まず、「カッコイイ」は、

 ある個人が個性を発揮してテレビや新聞雑誌などで服装や言動や技能を披露した時に発せられる。この場合、この個人はスポーツや芸能などで何かひとつは集団から抜きんでた一流のものがなければならない(いわゆる有名人やタレント)。その一流のものに付随して発揮される個性に「カッコイイ」感覚がつきまとう。そして、それを真似する一般人も一応「カッコイイ」がついてまわる(有名人やタレントのおこぼれ)。

「ダサイ」は「カッコイイ」の対局である。

 流行に無頓着で全く無視したものに発せられる。「遅れてる」ということであろうか。受験勉強に没頭して「普通の」服装をしている女子高生が入学試験の道すがら、通りがかりの女子高生集団から「ダ・サ・イ」と囁かれたそうである。スカートはミニでなく、ルーズソックスでもなく、髪は黒いままのオカッパで化粧もしていないし、参考書の入った鞄を重そうに提げている。その女子高生は家に帰ってお母さんに「私ってそんなにダサイかな?」と尋ねたそうである。お母さんは「ダサイのもあなたの個性じゃないのかしら」と答えてお互い納得したそうである。

最後に「ナンカヘン」である。

 これは強烈な個性はあるが、流行に合っていないものに発せられる。個性を発揮しないと「ナンカヘン」とはならないし、その個性が流行からはずれたところにある場合「ナンカヘン」となる。これも流行に無頓着なのは「ダサイ」に同じだが、我が道を行くという感じで自分の個性を発揮していることが異なる。この人が認められてマスメディアにでも取り上げられれば「ナンカヘン」から「カッコイイ」に変わるかも知れない。

「ナンカヘン」な人を「カッコイイ」と言うと、

 周りからそれこそ変な目で見られる。「ダサイ」の基準も流行によってめまぐるしく変わる。昨日まで「カッコイイ」と言っていたのが今日は「ダサイ」になっている。「カッコイイ」「ダサイ」「ナンカヘン」という言葉も周囲を気にしながら使い分けなければならない。そのための情報収集とお互いのコミュニケーションが大変である。人気のテレビ番組は見逃せないし主要な流行雑誌もチェックしておく必要がある。携帯電話やインターネットは必需品となる。

「カッコイイ」「ダサイ」「ナンカヘン」の周辺には、

 自分達の発信する個性が感じられない。周囲に振り回されている感じがする。反対に、本当に個性的に生きている人は「ダサイ」「ナンカヘン」と言われる人達の中にいる。マスメディアで押しつけられた「カッコイイ」感覚をいくら真似しても自分の個性にはならない。個性とは自分自身の中から生まれ出るものである。あれこれと流行を追い回しても何も発展向上することはない。ただ同じところをグルグルと引っ張り回されているだけである。長い目で見れば流行は繰り返されている。繰り返すとは元の場所に戻っていることである。単に目先だけの変化を求めただけであまり進歩は感じられない。

デパートや大型スーパーが主流になり、

 昔、近所にあった何でも売っている個人商店(駄菓子屋、小間物屋、万屋など)がなくなってしまったと思ったら、いつの間にか「コンビニエンスストア」などが現れ、名称は変わったが昔のような形態に戻っている。車社会で郊外型レストランができ食堂の出前はすたれて止めたところが多いが、この頃では「デリバリー」と称して「出前」が復活している。どういう訳かなくなっていた牛乳の宅配がこの頃復活している。牛乳パックでないビン牛乳のうまさはまた格別である。

このように、いかに世の中が進歩しようと、

 人間の生活そのものはそんなに変わるものではないという認識である。いかに科学技術を駆使しようと本質的な部分は同じであり効率的に時間を短縮できたり、大量のものが正確に処理できることが可能になっただけである。人間そのものは変わり様がない。また、人間の生活そのものを全て効率化しようとするとおかしなことになる。無駄と言えば全てが無駄で、下手をすると人間がただの糞尿製造装置になってしまう。無駄を承知で時間と手間をかけて成り立つのが人生であり、その無駄の中に未知への挑戦がある。効率的にやることは出来上がりの既成概念や模倣だけで生活することであり面白くも何ともない。

子育てや学校教育を効率化してはいけない。

 「効率化=手抜き」であり、人間を相手に手抜きは通用しない。手抜きした部分はそのまま結果に現れる。この頃の親や先生は子育てや学校教育に「効率化」を追求する。そして、言い訳がましく「そんな事に個別にいちいち対応している暇がない」と言う。しかし、文明の発達でひと昔に比べれば時間の余裕は増えたはずである。この増えた時間は何に使っているのであろう。無駄な部分を効率化して獲得した貴重な時間をボケッと無為に過ごしたり、壮大な暇つぶしに使ったり、ただ楽しいだけの快楽に耽ったりではあまりにも頽廃的で進歩がない。獲得した時間は文化生活や人間関係を通じた個人を充実するために使われるべきではなかろうか・・・。教育や文化はいくら科学技術を使っても効率化することはできないのである。

とりとめのない話になったが、

 私に言わせると今の若者の主流を占める人達には本当の個性をあまり感じることができない。家庭教育、学校教育、社会教育の場で、個性を尊重する風潮が廃れているのではないか。そして、これがそのまま若者に直接反映しているのではないかと危惧される。個性を育てるには個別の対応が必要である。「効率化=手抜き」をすれば個別の対応が真っ先に犠牲になる。みんなをひとまとめにして一括して管理しようとする。個性を発揮しようとすると集団の管理を乱す者として矯正、排除または無視されてしまう。これでは個性は育たない。

若者は本来の自分自身の個性を失って、

 全体における主流がどこかを懸命に模索し、その流れに合わせようと無駄な努力をしているのではないか。そして、我々大人はそのような若者を一生懸命育てているのではないか。場合によっては、我々大人もこのような没個性のぬるま湯に首までどっぷり浸かって周りを見回している情けない状況にあるのではないか。誰も勇気を持ってこのぬるま湯から抜け出して新たな居場所を捜そうとしない。

若者の中で個性を感じられるのは、

 「ダサイ」または「ナンカヘン」と言われている集団であると私は思う。「ダサイ」のも個性であり誰でも最初から「カッコイイ」わけがないし、「ナンカヘン」であるからこそ個性そのものである。個性の出発点は「ダサイ」「ナンカヘン」である。目標に向かって一生懸命努力している姿はある意味では「ダサイ」「ナンカヘン」ではあろうが、これを嫌って努力することを怠ったのでは何も進歩はない。この時点でこの人達を排除したり無視したりしたのでは貴重な個性の芽を潰してしまう。

このような世の中にあっても個性を発揮して

 すばらしい成果をあげている人達がいるが、この人達の生い立ちを見てみると、この個性の芽を見出し、大事にし、認めてくれた人物が必ずいる。また日本と違う環境の外国で育った人達が多いのはどういうわけか。現在の日本の環境は個性を育てるのには適していないようである。教育の考え方を変えなければいけないし、少なくとも積極的に個性の芽を潰す行為は即刻止めなければならない。「ダサイ」「ナンカヘン」を排除したり無視する風潮はそのまま若者同士の「イジメ」にも通じている。困ったものである。

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