私は、本が好きで、時々書店に行くが、
入門書の中に、「誰にでもわかる」「やさしい」「すぐわかる」という言葉が踊っている。特に、コンピュータ関係の解説書に多く見られる。何をもって誰にでもわかる、やさしい、すぐわかると言っているのか疑問に思う。基本的には難しいことをわかりやすく述べているつもりであろうが、難しいとは、①概念(専門用語)がわからない②複雑でわからない③やり方がわからない④技術が高度すぎてわからない⑤知識がなくてわからない等が考えられる。
難しい専門用語や高度な技術をわかりやすく解説することはある程度賛成できる。
ただし、何もわからない初心者に間違いなく正しく解説するのはそれこそ難しい。何も知らない人に下手をすると間違った概念を植え付けかねない。複雑なものをうまく整理してわかりやすく教えてくれるのはありがたい。知識を教えるのは比較的簡単で読者の知らないことを教えるだけであり、知ってしまえばそれで終わりである。やり方は手順であり、やさしく解説するために料理のレシピのごとく記述することは可能である。
さて、問題は、
難しい概念や高度な技術や専門的な知識がなくても誰でもすぐできるという解説書の謳い文句である。そのような解説書は往々にして料理のレシピのごとく記述されており、解説書くびったけで一言一句忠実にその通りに操作すれば誰にでもできるように仕組まれている。ところが、コンピュータの場合使用者の利用環境は様々で、解説書通りにやってうまく行かない場合はお手上げになる。その場合の対応策はほとんど触れていない。
難しい概念や高度な技術、専門的な知識は、
平易な日常語を使って言い換えられているが、私に言わせると日本語になっていない(意味が解らない)。「A」という概念を長々と記述しているつもりだろうが、「A」という概念を知っていてもこれが「A」という概念を述べたものだと理解するのに苦労する。これがことわりなく文中に出てくるので始末が悪い。意味を理解しようと真剣に熟読して最終的に「何だAの事を言っているのか」と気づく時はすでに数行を費やしている。
いっそのこと、
最初に「A」という概念をわかりやすく解説して文中では「A」を使って記述したほうがよっぽどわかりやすい。しかし、「A」という概念(専門用語)を理解させようとすると読者は逃げて行き、専門用語を多用すると難しいという印象を植え付け読者に敬遠される(販売数が減る)。しかしながら「A」と言う概念を使わないで、その度にいちいち最初から説明されたらまどろっこしくて仕方ない。
昔、コンピュータを電算機と称して、大型電算機しかなかった時代に、
電算機に関する翻訳書を読んでいたら、あちこちに「金銭登録機」という言葉が出てくる。何のことか頭をひねっていたが、それは「レジスタ:Register」を訳したものであった。今から考えると笑い話だが、「レジスタ」の概念は日本にはなく、「レジスタ」は「レジスタ」としか言いようがなく、「レジスタ」として理解せざるを得ない。カタカナ語は取っつきにくくていやだと言ってもしょうがない。それでも、当時も横文字やカタカナ語にアレルギーを示す人達がたくさんいた。
反対に、
日本語にカタカナ文字があったがために外国の新しい概念をそのまま日本語に変換でき、技術導入が容易だったと言うこともできる。かといって、訳の解らないカタカナ語が氾濫するのも考え物であり、特に日本にしか通じないカタカナ語を勝手に作って使うのは虎の威を借る狐ごときで本末転倒である。当分の間はカタカナ語を使って、その概念が日本国民にに定着したところで日本語に変換して取り入れてゆけばいいと思う。そういう意味でカタカナ語は便利なものでもある。
さて、話は元に戻って、
このような解説書に限って、読者の目を引く項目(例えば画像、音声、グラフ、図形等)はページを割いて詳しく述べているが、使い込むと必要になる基本的な事項(地味で目立たないが重要)はさらっと述べていて説明不足であり、ゆくゆく大いに困ることになる。一番使い道があって便利なのは基本的な事項を理解することで、基本的な事項は全てのものに応用できる。
私は、パソコンをはじめて20年以上になる。
どれだけの解説書を渡り歩いたことだろう。昔の解説書は専門的で取っつきにくかったが理解しようと努力すればわかりやすく、すべてを包含して書かれていた(DBASEの解説書は秀逸だった)。この頃の解説書は誰にでもわかるという謳い文句だけでその内容は薄っぺらで不親切である。様々な疑問を解決しようとすると結局は専門的な解説書に行き着くことになる。まあ「入門書」だからそれでいいとはいえ、かえって読者を路頭に迷わせ入り口でつまづかせるのではないかと心配である。
読者も、何かをやろうと思いたったのであれば、
ある程度の努力は覚悟しなければならない。読むだけでできるとか聞くだけでできると思ったら大間違いである。ある程度は概念を理解し、専門用語を理解し、仕組みを理解しなければいつまでたっても上達できない。それを助けるための優れた解説書は大いに歓迎である。
細かい説明をいちいちしないで済むように、
ひとかたまりのものを概念でとらえて専門用語で表現している。この概念を理解し専門用語を覚えると効率的であり便利である。この専門用語なしに説明しようとすると文章は冗長になりわかりにくくなる。また、読者はいつまでたっても解説書を隅から隅まで調べまくらなければならない羽目になる。
私は今、図書館にいる。(モバイル中です)
近くの本棚に目をやると、「やさしい哲学」、「やさしい英会話」、「やさしい経済学」、「やさしい・・・」といろんな解説書、入門書が並んでいる。ほんとうに「やさしい」のだろうか。「やさしい(と思い込ませる)」「やさしい(ことしか書いていない)」のつもりで言っているのであろうか。もっとも善良な読者はそれほど馬鹿ではなく、こんな入門書、解説書を読んだだけでほんとうに理解できるとは思っていないであろうが・・・。
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