事件が起こると、当事者の行動を追跡し謎の部分を洗い出してマスコミが報道している。
自分の行動をつぶさに見てみると、謎の行動ばかりであり、自分でもなぜそんなことをしたのか動機も原因も理由も説明できない。昨日何故アジのフライを食べたのか、いつもはワインを飲むのに昨日に限って何故飲まなかったのか、お茶はコーヒーや紅茶や中国茶でなく何故日本茶を飲んだのか、いつもは夜11時には寝るのに何故12時まで起きていたのか、インターネットを使ってどこの誰と連絡をしていたのか、テーブルに残された急須と3個の茶碗は何を意味するのか、玄関に落とされていた部屋の鍵の正体は、またキーホルダーは何故壊れていたか、キーホルダーは通常の力では壊れないはずであるが何らかの争いの証拠ではないか、謎は深まるばかりである。
ここまで書くと、笑い話になるが、
テレビの報道はこの笑い話に近いものがある。たったこれだけで面白い推理小説が書けそうである。昨夜はたまたま玉露を入れた。玉露の茶器は小ぶりの茶碗が3個ついている。一人で飲むときも3個の茶碗を使う。これを使って急須のお茶を出し切らないと2番茶3番茶がおいしくいただけない。キーホルダーは壊れかけていただけで、そのため部屋の鍵が玄関に落ちていた。今朝見つけた次第であり、自分でも何で落ちていたのか解らなかった。アジのフライを食べたのもワインを飲まなかったのも日本茶にしたのも単なる気まぐれで動機も原因も理由も説明できないし、説明する必要もない。
「謎」はある大きな疑問を解くために生じる。
その疑問が何なのかを明確にしないと、むやみに謎を追求しても意味がないし、その疑問を解決するための重要な鍵となる「謎」でなければ追求しても意味がない。手当たり次第「謎」を追求したのでは、世の中全てが謎になってしまう。今私がこの記事を書いているのも動機も原因も理由も解らない「謎」である。自分の中の何かに突き動かされて頭で思考し手がキーボードを叩いている。そして、結果がどうなるのかも解らない。周囲の誰かが読んでくれ評価をしてくれた分が結果となる。
人の心の謎は解くことができないし、解くこと自体に無理がある。
しかし、人の心を推理することは他人にとって興味あることのようである。そして、推理するためのネタはどこにでもいっぱい転がっている。それらのネタを使ってあれこれ推理を楽しんでいる。これはこれで楽しいことであるし、その人を理解するための永遠の努力であるが、理解できるのはほんの一部で、やはり人の心の謎は解くことができないし、解いてはいけないのである。解けたと思っているのが間違いであるし、解けたと思われたほうは大迷惑である。
人の心に焦点を合わせないで、事実や行動に焦点を合わせれば疑問は比較的簡単に解ける。
AがBになった原因は、AをBにした理由は、というアプローチである。自然現象もあるし、無作為の結果もあるし、ある結果を意図してやったこともあるだろう。しかし、事実や行動をつぶさに観察して繋ぎ合わせていけばその人のやろうとしていることは見えてくる。あくまでも追求するのはAがBになった原因であり、何でもかんでも謎を追究すればいいという訳ではない。
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