8月15日は敗戦記念日である。
日本国がポツダム宣言の受諾を決定(8月14日)し、日本国民に対して戦争の終結を宣布(8月15日)した日である。世の人々は終戦記念日というが、本当の終戦は9月2日のポツダム宣言に同意して降伏文書に調印した時点であり、これも終戦ではなく休戦協定であった。日本にとっては終戦ではなく休戦状態で戦後も連合国の占領下にあって連合国最高司令官の下に統治されていた。これに従わない場合は迅速かつ完全な壊滅の道しかなかった。「ポツダム宣言に反したら再度完璧にやっつけるぞ」という体制化で「休戦」状態に入ったわけである。日本では大東亜戦争(敗戦後大東亜構想を廃絶するために太平洋戦争と改名させられた)と認識しているが、世界的には第2次世界大戦で、世界規模で枢軸国と連合国に分かれて戦った戦争なのである。日本だけに特化せずにもっと世界規模の客観的な見方でこの戦争を認識したい。
「あの戦争は何だったんだろう?」と言う問いかけをよく聞く。
戦争は手段であって目的ではない。戦争そのものの評価をしても、それは戦い方や成果についてであって、しかも結果論でしかない。問いただすべきは目的そのものについてであって、目的を達成するために戦争という手段を選択したことの是非である。よりよい国を目指して国として戦う事を選択し、国民が一致団結して戦った事に対して、戦った事自体を非難したり、戦った人達を非難することは間違っていると思う。確かに戦争は悲惨で再び繰り返すべきものではないが、この悲惨な戦争を外交の最終的手段として選択できる可能性を持つこと、もしくはその確固とした意思を持つことは必要な事なのである。何故ならば、世界に存在する無法国家に対抗する手段を自ら放棄することはできないし、放棄すべきではないからである。理想としての平和を唱えるだけでなく、現実としての平和を維持するためにはある程度の「力」の行使は必要なのである。この力は「外交」「経済」「軍事」「文化」「技術」などで、これらで解決できなかった場合に最終的に「戦争」に突入する事となる。二度と第2次世界大戦のような過ちは起こしてはならないが、最終的には戦うという意思と可能性は保持しておく必要がある。
戦争そのものは個々の戦いからなっている。
身近な小さな戦いから大規模な軍事力を行使した戦闘まで色々あると思う。しかし、これらをひっくるめて「戦争」だったのである。いい戦争もあったろうし、悪い戦争もあったろうし、成功も失敗も、正誤も、善悪も、人道的なものも非人道的なものもあっただろう。しかし、これらのそれぞれの戦いは国をよりよくするための目的のためであったのは間違いない。最終的な勝ち負けで戦争そのものを評価しても、それは結果論でしかない。負けたら全て戦争犯罪人で、もし勝っていたら戦争に参加した全ての人が英雄になるのもおかしなものだ。勝っても負けても国のために貢献した功労は同じであり、国際政治や世論は未だに成熟してなくて、人道的かつ客観的な配慮よりも利害関係と物理的な配慮でしか機能していないようである。また、戦っている人もしくはこれを応援している当事者に、最初から負けるつもりの人はいない。「負ける負ける」と言い聞かせながら戦っているのもおかしなものだ。「勝算は全くなかった」と言われるが、これは戦後の冷静な分析から一方的に評価されたもので、当時は当然の如く勝つことを信じて、かつ勝つ可能性を目指して戦ったのである。
戦争は1国だけではできない。
最低限、敵となる相手国が必要であり、相手国も敵愾心をもって戦う事を決意している。戦争を放棄するためには、一方的に戦闘そのものを放棄して退散しても外交問題は解決しない。反対に相手の言いなりになるだけで、問題はさらに深刻化する。戦争を放棄するためには、まずは相手国の敵愾心を取り除く事が重要であるが、自国はコントロールできても、相手国を上手くコントロールするのには困難を伴う。戦争とは相手国を徹底的に壊滅させ敵愾心を消失させることでもあるが、敵愾心を消滅させる手段は「戦争」だけではない。世界が平和である事によって自国の平和を実現できる。反対に自国の平和を実現するためには世界の平和に貢献してゆかなければならないと思う。自国だけの平和を追求することは最終的には周辺諸国、ひいては世界に対して害悪を及ぼし紛争の原因を作り出す。自国さえよければの考えも不法国家をのさばらせるだけである。一つの独立国として応分の責任は果たしてゆかなければならない。軍事力についても同様で、力の空白を生じさせることは混乱を招く原因であり許されないと思う。国際平和を維持するのには各国の努力が必要であり、平和維持のために各国が現実的に応分の「力」を行使する能力と意思を保持する事が重要である事は現在の世界情勢から間違いないようである。
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