オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

オリンピックと標準偏差

2021年08月08日 | Weblog
標準偏差について過去に記述したことがある。

 「偏差値に基づく成績管理は悪くない」 である。

 家でコロナ禍のために自宅でオリンピックのマラソンを観戦していたら、各人が自分の実力で競争をすると、競技者の形状は縦長の一直線上になる。各人の実力に応じて縦長に整列するのである。ここで、先頭グループが実力をセーブすると形状は団子状になる。遅いグループが先頭が確認できると発奮して前方に詰めるためますます団子状になる。なんてことない現象だが、よく考えると興味深い現象である。

各人が自分の実力を最大限に発揮して競争している場合は、縦長の形状になる。

 個々人の実力に応じて縦長に並ぶのである。団子状になる場合は、少なくとも最大限に競争していないことになる。当然全体の実力は落ちるし、記録も伸びない。お互いが様子を見ながら実力を抑えて走っていることになる。いずれかは機会をとらえて本来の実力を発揮して先頭を目指すことになる。その時機が何時なのかをお互いが牽制し合っているのである。先頭がスパートすると競技者の形は縦長に変わってゆく。そして、先頭から最後部までの距離は増大してゆく。

大学入試検定の偏差値を考えてみると、

 ほとんど標準偏差に近い。その標準偏差の前で上位の者と下位の者が偏差値で比較される。よく考えると、なんかおかしい気がする。標準偏差とは平均値を中心に団子の状態である。考えなければならないのは標準偏差のグラフの形状であって、偏差値そのものではない。団子状態であるということは、受験生が切磋琢磨し競争している状況にないことに等しい。受験勉強なるものを全くしないで入試検定をすればきれいな標準偏差のグラフとなる。

各人が努力して競争し実力を最大限発揮していれば、

 少なくとも中央の標準偏差のグラフは数値が下がって、上位から下位までの平坦なグラフになるはずである。マラソンで言うところの縦長の形状である。偏差値のグラフが典型的な標準偏差の形状を示すということは、本来の競争がなされてないのではないかと思ってしまう。もっと言うと、大学入試検定そのものが本当の実力を検定しているのではなく、ただ単に学校で教育した成果をまるでアンケート調査のように検定しているのではないかと思ってしまう。

大学入試検定は教育の成果を問うものでもある。

 目的は学校で教育した成果がどのように反映しているかを分析し評価し今後の教育の反省と教訓事項として取り入れてゆくことが重要なのではないかと思う。その分析なしにただ単なる大学入試の事前のフィルターにしているのはどう考えてもおかしい。誰でもどんなに成績が悪くても例えば東京大学の入試に挑戦する機会を制限されるものではない。何故それが制限されるのだろう。何か違うような気がする。

現在の教育は果たして純粋な競争の中でなされているのだろうか?

 先頭集団が足踏みさせられ、後方集団は切り捨てられているのではないだろうか。だから、みんなが一様な団子状態になっている気がする。もっと自由な教育が教師側にも生徒側にも求められると思う。そして、競争するのは試験の点数ではない。各人の個性を生かした本当の実力である。その実力が発揮され正当に評価されるような教育環境が求められているのであろう。そうすれば先頭グループも後方グループも自由に競争できるのであろう。

日本の社会を見渡してみると、 果たして先頭から最後尾までが純粋な競争をしているのだろうか?

 政治も経済も社会生活もそんな気が全く感じられない。何だか、団子状の状態で停滞している気がする。しかも団子の中央は後退していて世界から大きく取り残されている気がする。先頭集団はもっと発奮すべきであり、周囲を見渡して安全な方策を模索して様子見をしている場合ではない。そして、発奮するためには冒険心が必要である。例え失敗しても次に続く集団が控えている。安心して冒険していいのである。それを支えるのは最後尾の集団の頑張りに支えられていることでもある。考え直す時期に来ていると思う。

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