オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

数字の不思議

2017年08月22日 | Weblog
「0」や「1」は数字ではないと思う。

 「0」は数えられないし、「1」も1つであれば数える必要はないので数字とは言えない気がする。よって数字は2以上無限大までであるようだ。未開の民族の間では数字は「ひとつ」「ふたつ」「たくさん」だけだと聞いたことがある。みっつ以上は「たくさん」で済ませてしまう。英語の文法でも一人称、二人称、三人称までである。4人称以上は3人称で済ませてしまう。「I」と「You」と「He、She」である。「ひとつ」「ふたつ」「たくさん」の名残ではないかと思える。一人だけの世界、二人だけの世界、そしてたくさんの世界があったのである。

一人だけの世界に人とのコミュニケーションは必要ない。

 自然環境や動植物とのやりとりがあるだけで、人間との付き合いは自分の中を見つめるだけになる。無人島に一人生きる状況であろうか。生まれた時から一人であればコミュニケーション能力そのものも発達せず、コミュニケーションの概念さえない。自分の存在があるだけであり、本能的な反応しか期待できない。自然環境や動植物と共存共栄しながら生命を維持するために人間の本能を駆使して生きてゆくだけである。生きるも死ぬも自分の自由であり何をしようと自由奔放、勝手気ままである。このような世界が「一人だけの世界」ではないかと思う。「1」は数字とも言えないが、「一人」は人間とも言えないかもしれない。

二人だけの世界はコミュニケーションがある。

 あなたとわたしの間でコミュニケーションが存在し、発達してゆく。あたかも赤ちゃんのコミュニケーション能力が発達してゆく際の母親と赤ちゃんの関係みたいな世界であろうか?それとも恋人同士の二人の世界であろうか?いずれも他者が介在しない二人だけの関係である。これが人間関係の基本でもあり、最も人間関係が最高に親密になる状態であろう。この関係が長ければ長いほど関係は深くなり、ほとんど一心同体に同一化してゆく。ここに他者が介在すれば、いずれ二人の関係は乖離し分離してゆくであろう。よって二人の関係をそのまま維持しようとすれば他者の介在を拒絶しなければならない。

3人以上のたくさんの世界ではより高度のコミュニケーションが発達する。

 しかしこれも、基本は二人だけの世界であり、時空を分割した複数の二人だけの世界が存在する。そして、たくさんが多くなればなるほど割り当てられる時空は少なくなってゆく。すなわち、二人だけの関係が希薄になってゆく。その希薄な関係が維持されてたくさんの世界が実現する。当然、二人だけの関係が維持されなければ、当該人物はたくさんの世界から除外される。そして、たくさんの世界の中心には自分自身が居る。たくさんの世界を構築するのは自分自身なのである。自分自身がしっかりしていないと、各々の二人の関係を維持する努力をしないと、このたくさんの世界はあやふやな訳の解らないものになってゆく。

たくさんの世界にもいろいろあるだろう。

 3人でも、10人でも、100人でも、1000人でも、それ以上もあるだろうが、数が多くなればなるほど基本であるところの「二人の世界」が希薄になり、これを維持することが難しくなる。ある人数を超えたら物理的に二人の世界を維持することは困難で、仮想世界へと展開される。仮想世界はどこまでも膨張してゆき、結局、二人の関係はゼロに近くなる。これは一番最初の「一人だけの世界」と同じである。まるで現代のネットワーク社会のようだ。このような中で、正常なコミュニケーションを維持するためには、個人のネットワーク社会を無節操に拡大させるのではなく、直接の二人だけの関係を回復することである。二人でもいい3人でも10人でも100人でもいい。ただし、直接の二人だけの関係が維持できる人数の中でである。

そうして、仮想的なネットワーク上でも二人の世界を思い起こすことである。

 仮想の相手に対して、あたかも二人の世界にいる相手に接しているのと同様に行動し意思表示し発言し対応するのである。仮想の相手に対しては何をしようと自由であり何でも可能である。ただし、何でもできるからと何でもやってしまったらコミュニケーションの根底が崩れこの関係は破壊され完全に崩壊する。世間で言うところの「炎上」であろうか?見知らぬ初対面の相手とネットワーク上で二人の世界に入る場合も、直接に構築されるリアルな二人の関係と同様な手順を踏まなければならない。当然ながら初対面の相手とは現時点で二人の関係性はゼロなのであり、これからまさにスタートする状況なのである。それなのにコンピュータネットワーク上であるというだけで何らかの錯覚を起こしてしまう。要は現実の手順を省略して実行に移すことが可能だと誤解するのであろう。大いに反省し本来の一対一のリアルな関係構築の煩わしさを厭わない姿勢が必要なのだろう。数字の始まりは一対一の対応からなのである。

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