オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

人類に対する貢献

2018年06月06日 | Weblog
ずっと前から思っていたことがある。

 生物は自分の子孫を残すために生き、そのために最大限の努力をし生涯の最大目標としてそのために生きるのが宿命でもあるようだ。そして、たとえ自分は死に絶えてもその後には自分の子孫が自分の新しい生命として生き続けるのである。そうであれば、生殖の機能を発揮して子孫を残す活動をしない生物はこの世に存在する価値がないのではないかと思い続けていた。しかし、そうでもなかったのである。

私の周りにも生涯独身で子供を設けない人達がいる。

 人生最大目標を達成できないことに対し、不本意なのではないかと危惧していた。身体的な原因で子供を設けることができないのは仕方ないとしても、それ以外で子供を設けることをあえて拒否するのは人間的に許されないのではないかと思い続けていた。と言うよりも、そういう考え方が理解できなかった。まぁ、それは個人の自由であり、他人がどうこう言う筋合いではないだろうと話題にすることを避けてきた自分がいる。

人間は最も発達した社会的動物である。

 たとえば社会的動物には蟻や蜂がいる。蟻や蜂にはただ働くだけで生殖に関係しない働き蟻や働き蜂がいる。生殖を行うのは女王蟻や女王蜂であり、働き蟻や働き蜂は直接には自分の子孫を残すことはできない。しかし、次の代にもしっかりと働き蟻も働き蜂は存在し、自分の子孫がしっかりと働いているのである。そういう意味で子孫は残されているし、働き蟻や働き蜂の労働がなければ自分達の子孫も存在できないのである。

美味しい仔牛の牛肉は美味しい牛の系統で味が保たれている。

 しかし、よく考えてみると、その美味しい仔牛は屠殺されて我々人間の口にされてしまうのであるが、この美味しさが途絶えることはない。生殖を任された別の種牛が同種の血縁にある兄弟に受け継ぐのである。このようにして美味しい牛肉の味は継続されてゆく。この形質を継承させるためには血縁関係の管理が大事であり、血縁関係を維持しより美味しい牛肉を作り出すために掛け合わせを管理していかねばならない。

こう考えてくると、

 最も大事で必要なのは血縁関係のようである。直接の子孫を残すだけでなく、自分の血縁関係にある子孫を多く残すことが生物の最大目標であるようである。進化論においても自然選択と血縁選択と言う二つの説がある。自然選択とは直接の生殖により残される子孫のことであり、よりよい子孫を残すためにはより優秀な配偶者を選択しなければならない。それによりより優秀な種が生き残ることができる。

もう一つが、血縁選択である。

 これは遺伝子を共有する血縁者の繁殖成功に貢献するための利他的行動により自分の優秀な遺伝子を残そうと言う集団の存在を認めたものである。こう考えると、前述の子供を設けない人達も血縁選択のグループに属するのだと思う。しかし、それでも、血縁関係にある人達に対して利他的行動で貢献することに同等の意義がある。ただ単に個人的利己的な行動であれば、進化論的には意味がないことになる。

自分も老齢となり、生殖の役割は終わっている。

 しかし、それでも血縁選択の機能には貢献できる。利他的行動をもって、血縁関係にある人達に貢献し、自己の形質を将来に残すための努力をすることは最終的な人生の大きな目標を達成することでもあろう。いや、人間はさらに高度に社会化した生物である。血縁関係だけでなく、地域社会のため、市のため、県のため、国のため、世界のために貢献することはまわりまわって自分の子孫を残すことにつながる。これを本来の我々人類の最大目標とすべきだろう。

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