ある一般市民の座談会で、
政治家の高齢化に対する異論として「社会に害を及ぼしている」「年寄りはさっさと引退すべきだ」と言う意見を述べる人があった。私はその意見に賛成も反対もしないが、その主張している真意についてはよく理解しておく必要があると思った。そして引退する引退しないは基本的には本人の自由であり、辞めさせるにしても高齢だけを理由に一方的に辞めさせることはできないし高齢であることはその人の特性の一要素にしか過ぎないと思った。国民から選出されなかったら年寄りだろうと若かろうと政治家の職を失うのは同じであり、門外漢に「年寄りは引退すべきだ」と言われる筋合いはない。
「年寄りはさっさと引退すべきだ」と主張している本人もいずれ年寄りになる
年寄りを自分とは関係ない対象として意見を述べているようだが、自分が年寄りになったとき周りから「年寄りは引っ込んでいろ」と言われたら悲しいものがある。まだ十分に能力がありもっと社会に貢献しようと努力している最中にただ高齢だからと言う理由だけで隠居を迫られたら寂しいものがある。実力と関係なく高齢者をのけ者にするのは「差別」以外の何物でもない。実力が劣るために選に漏れるのは年寄りも若者も同じである。「高齢」は長所のひとつであり、欠点のひとつでもある。
私は自分の両親ができる限り幸せで長生きしてほしいと思っている。
両親が幸せで長生きできると言うことは自分も幸せで長生きできることである。両親が豊かな老後を暮らせると言うことは自分も豊かな老後を暮らせることである。両親が豊かな老後を暮らせるように努力する自分の姿は子供に見られている。そうであれば自分の子供も同じように両親を大切にするであろう。打算的だと言う人もいるかも知れないが長い目で冷静に考えれば本音のところはこうではないか。そしてこれが最低限である。どんな人であってもこの最低限の線は守ってほしいものである。これ以上は両親に対する尊敬と畏敬と感謝に対するできる限りの親孝行であり、個別の事情によりそれぞれ異なるだろうと思う。
自分は親の面倒を見ずに子供には自分の面倒を見させるのは道理に合わない。
そんな人の子供が親の面倒を見るはずがないとは思うが、これを強制するのは諍いの素である。政治の高齢者対策の支援も同じであろうと思う。これから高齢化社会を迎えようとしている人は、これまでに自分の親の面倒を見るがごとくに応分の負担をしてきたのである。そうであれば当然のごとく自分も面倒を見てもらう権利があると思う。権利と言うと大袈裟になるが、自分の将来を見越して、自分の将来のために負担をしてきたことになる。この期に及んで高齢者の福祉を削減し老後の保障を打ち切ることは裏切り行為に近いと思う。そして、高齢者の現在の福祉を犠牲にすることは当然自分達の将来の福祉が犠牲にされていることでもある。
親の面倒も見ないが子供にも面倒を見てもらわないと言う人もいるであろう。
しかし、この人は自分一人でどこまで頑張れるのだろう。本当に完全に周りに迷惑をかけずに生を全うすることができるのであろうか。周りに助けてもらえるたくさんの人がいるというのにその助けを頑なに拒もうと言うのである。また、周りに困っている人がいても見て見ぬ振りをしようと言うのである。「人間は社会的動物である」という本質を無視した考えであり、まるで野生の動物社会で弱肉強食にもめげず必死に生きるけなげな一匹狼を連想してしまう。あまりにも刹那的で局所的であり過去現在未来という時間と人間社会の地球的な空間の広がりを感じ取ることができない。
親の面倒は見るが子供には面倒を見てもらわないと言う人もいるであろう。
これは、自分の代には通用するが、その子供の代には「親の面倒も見ないが子供にも面倒を見てもらわない」ということになる。この考えは前述に同じである。自分は尽くすが人には尽くしてもらわないというのは献身的な自己犠牲に見えるが、反対に尽くしてもらうために努力し気配りをするのが面倒だと言う本音もちらちら見える。子供の代への教育を怠っていることでもある。そして自分が健康な今現在はこの考えが通用しても人生を全うする最期までこの考えが通用するとは思えない。確かに物理的な部分は「金」で大部分解決がつくが、精神的な部分は「金」で解決するわけには行かない。面倒を見ることは「金」だけの話ではないのである。
年寄りを大事にしない社会は、自分の将来を大事にしない社会である。
年寄りは自分の将来の延長線上にある。年寄りが不幸であることは自分の将来も不幸であることである。自分だけは関係ないと思ったら大間違いであり、自分だけは関係ないという考えは通用しないしまた通用させてもいけない。国民である限りはみんなで支え合うのは当然のことであり、自分だけが例外になることは許されない。自分だけを例外に置くことは日本国民を辞めることでもある。都合のいいときには日本国民であることを強調し都合の悪いときは日本国民であることを忘れるのは老人の痴呆症以下である(痴呆症は都合のいいことも悪いことも忘れてしまう)。
「年寄りは引っ込んでいろ」の主張はあまりにも刹那的な利己主義である。
利己主義と言うと悪い意味に受け取る人が多いが、徹底した利己主義は理想社会を実現することも可能である。問題は刹那的な局所的な利己主義であり、終始一貫しない利己主義である。一見すると他人の利益のためと思われる行為でさえ、実は自分の利益のためになされていることに気づくべきである。そのためには長期的な広い視野と地球規模、宇宙規模での思考範囲を持つ必要がある。これは何も年寄りに限ったことではない。「子供は引っ込んでいろ」「若僧は引っ込んでいろ」「素人は引っ込んでいろ」「新参者は引っ込んでいろ」など、みんな同じである。こんな理不尽な言葉で言論を封じるその人達こそ引っ込んでいてもらいたい。
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