ずっと過去にシステムエンジニアのセミナーに参加したことがある。
その時の講師は、コンピュータ技術の最先端を走る人であることも手伝って、教育を受ける前から最先端の図表や画像や場合によっては映像を駆使したオーサリングやプレゼンテーションが展開されるであろうと期待していた。ところが実際の講義は従来のプロジェクタを使ってOHP用の透明シートの上に手書きで書き込みながら教育する方法でなされた。しかもなぐり書きで、話をよく聞いていない人には何が書かれているか理解できない。シートがいっぱいになったら次の新しいシートに取り替えて書き込む。その人の弁では「最新の情報は手書きです」と言うことであった。
確かに手書きが最新であり、コンピュータに入力されている情報はすでに古い。
もっと最新の情報は、各人の頭の中にある。決してコンピュータの中にはない。このことは非常に重要なことを示唆する。コンピュータの中にある情報は我々の頭の中にある最新の情報で書き換えていかなければならないのである。コンピュータの中に最新の情報があるわけではない。コンピュータはこの情報を整理し蓄積し知らしめるための道具に過ぎない。自分達の頭で考えた最新の情報でコンピュータの情報を書き換えない限りコンピュータの情報は陳腐化してしまう。
例の講師に言わせると、
ワープロで入力作業をして出来上がった情報はすでに古いことになる。これがネットワークやメディアで配信されるともっと古くなる。新聞や雑誌や書籍で販売されるものはさらにもっと古い。すでに間違った無意味なデータであるかも知れないし、内容がすでに修正されているかも知れない。そうであれば、最新の情報はリアルタイムに伝わる音声であり、手書き文字であり、その人の表情であり動作でありジェスチャーである。まさか、頭の中を割って最新の情報を取り出す訳にもいかないであろう。ということで、この講師は最新の情報に基づく講義をしていることになる。
最近の技術雑誌などを見ていると、
手書き文字が乱舞している。活字だけでは味気なく固苦しくなるために使っているのであろう。時々、きっちりと精緻に書き込まれた手書きノートの写真などが掲載されていると、その書き手の人を尊敬してしまうし、信用してしまう。そういう知的生産作業の中から生まれた情報はより貴重なものであろうと感じてしまう。そしてそこにオリジナルでかつコピーではないホットで最新のものという息吹を感じてしまう。活字にはない感覚である。イメージとしてなぐり書きされた鉛筆書きのデッサンにも、きっちりと完璧に清書されたものにない信憑性と真実を感じてしまうし、かえってイメージがどんどん膨らんで行く。どうやら活字で印刷されたものが権威であった時代から、個人直筆の手書きが権威である時代に突入しそうである。
そう考えると、
黒板とチョークだけで教育していた昔の学校教育は常に最新のホットな情報で教育していたことになる。確かに、現在の教育はプロジェクタを使ったりプレゼンテーションだとかビデオだとかの(効率的な)視聴覚教育が盛んであるが、考えてみるとその教材は大半が誰かが過去に作った物を拝借して活用しているだけであり、最新のものでも先生が自ら考え自ら表現したものでもない。よってどんな人が教育しても結果は同じになってしまうし、これでは先生は教えるロボットか下手をするとただの用務員に成り下がってしまう。たまには先生は自ら考え自ら表現したもので教育しないと先生としての価値がなくなってしまう。
情報技術の最先端が「手書き」であるとは皮肉であるが仕方がない。
パソコン通信やインターネットで利用者を区別するときに、「RAM」と「ROM」という言い方がある。積極的に情報を発信し書き込みをする人を「RAM:Random Access Memory(書き込み読み出し専用記憶装置)」と言い、受動的に他人の発信した情報を閲覧するだけの人を「ROM:Read Only Memory(読み出し専用記憶装置)」と言う。利用者がROMだけになったら誰も情報を発信する人がいなくなってしまうし、情報のないネットワークはつぶれてしまう。利用者は程度の差こそあれ「RAM」を目指さなければならない。また、最終的に情報の発信がなければ情報活動は完結しない。
我々がコンピュータシステムを利用するとき、
ややもすると、ROMに陥ってしまうことになる。提供された情報が絶対のものであり、権威があり、万人に支持され、変更することができないと思ってしまうが、そうではない。この情報は誰かが考えたもので、すでに古くて見直されるべき情報であると思わなければならない。そして、利用者の意見を乞うているのであり、利用者の意見により変えられるべきものである。このことによりコンピュータシステムの情報は最新の正しいものに維持される。また、世の中に大量に流通している情報のほとんどは一過性の使い捨ての垂れ流し情報であり、これらの情報は参考にこそすれ、これを絶対視して信じ込むのは危険でさえある。数時間後には内容が修正されているかも知れない。ここでも情報の受け手は主体性を持って判断することが要求される。
特に組織の管理職や長の人は考え直さなければならない。
組織の持つコンピュータシステムの情報を積極的に書き換えて行くのは、組織の管理職や長の人である。自分で書き換えるわけではないが、書き換えさせるのである。コンピュータの吐き出す情報を絶対視してはいけない。コンピュータは単なる道具でありこれを使っているのは組織であり、それを管理し指揮・指導するのは管理職であり組織の長である。「コンピュータの結果がこうなっているから間違いありません」とか「システムがこうなっているので変えることができません」という現場担当者の言い分は本末転倒である。どのようになっていようともおかしければ変えていかなければならないのであり、おかしいと判断するのは人間である。それをやることが「ROM」でなく「RAM」であることでもある。
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