オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

赤信号は誰のため?

2008年09月27日 | Weblog

過去に「赤信号みんなで渡れば恐くない」というジョークが流行った。

 日本人にはインパクトがあったようだ。「規律は絶対守るべきものである」という固定観念から「規律はみんなで作ったものだからみんなで破れば何も問題ない」という逆転の発想が受けたのだと思う。反対に、日本人の「規律は絶対守るべきものである」という固定観念をせせら笑ったものでもある。この固定概念は一旦みんなで決めたことはたとえ間違っていても絶対守らなければならないという病的な世界を現出させる。下手をすると国民をこの固定概念の枠に追い込んでよからぬことを公然とやらかす輩が出てくる。

日本の民主主義政治は依然として借り物のままである。

 日本人の心の中には依然として「封建主義」が息づいている。「封建主義」というと権力で「お上」が「民」を一方的にコントロールする仕組みを連想するが、それはある意味で間違いであると思う。また、この封建主義を全て廃絶することが近代化の必要十分条件だと考えるのも間違っていると思う。封建主義は上と下との契約によって結びついた関係の上に成り立っている。上も下もこの契約をお互いに履行することが絶対条件であり、根本は人間的な信頼関係である。力で押さえつけるものでもないし、脅しや恐怖で統治するわけでもない。日本の封建時代は下は上を信頼し自らその統制下に入り、上は下の信頼に応えるべくその役割を果たしたのである。

そこに「民主主義」が入り込んできた。

 民主主義も契約関係に根ざしている。ただ違うことは個人主義が基本であることである。契約は契約でも人間的な信頼関係を前提とした契約ではなく、互いに異なる個人同士の平等な横の契約である。考え方が異なる者同士が共通の認識を確認するための契約である。従って、契約にないことは何をやろうと基本的には個人の勝手であり、契約にないことまで束縛することは個人主義に反し個人の自由を奪う行為になる。人間的な信頼関係を前提とした封建主義とは根本から違う。

日本は「民主主義」と「封建主義」が混在している。

 混在していてもいい。しかし、混在していることをしっかりと認識する必要があるし、民主主義が絶対的な善であり全て是認すべきであり、封建主義が絶対的な悪であり全て根絶すべきだという短絡的な考えは誤りであると思う。日本の借り物の民主主義を陰で支えているのは封建主義思想である。日本を悪くしているのは借り物の民主主義政治である。民主主義の御旗のもとに政治の場で合法的に決められた「契約」は、日本の国民には封建主義の「契約」として受け取られる。民主主義では「契約」に異議があれば同意しないで拒否するのが当然の原則であるが、日本の場合は異議を唱え拒否する者は少ない。そこには封建時代の「お上」を信頼する気質が残っている。

契約を民主主義制度で決め、その履行を封建主義思想で行ったのでは問題がある。

 借り物の民主主義ではまともな契約が打ち出せない。はっきり言うと何をやっていいのかわからないで右往左往している状態にある。そして仕組みだけで契約が生み出されて行く。民主主義の制度としてはこの契約に異議を唱える権利を持つのは国民であり、日本の政治家はこの契約がたとえ間違っていると思っても変えることはできない。なぜならば日本の政治家も封建主義思想を引きずっているからである。自分の一存で契約を一方的に変えることは国民の信頼を裏切る行為だと錯覚してしまう。「お上」と「民」は一心同体なのである。

日本の政治家は民主主義の言う「国民の代表」の役割を果たしていない。

 「国民の代表」であり、全面的に信任されているのであれば自分の一存で契約を一方的に変えることもできるし、その行為が間違っていたと国民が判断すれば代表を降ろされるだけである。代表を降ろされたからといって信頼を裏切ったわけでも名誉が傷つけられたわけでもない。それは結果論でもある。そういう仕組みが働くのが本来の民主主義であり、政治家は「国民の代表」であることを認識して自己の信念を信じて決断しその能力を最大限発揮するのが使命である。ここで慣れない民主主義のために不安になり封建主義思想を持ち出すと自信を喪失して再び国民の信頼を確認するためのご機嫌取りをするようなおかしなことになる。借り物の民主主義をやめて封建主義を通せば、多分「お上」は判断を誤ることはないのであろうが・・・。

日本の国民は民主主義の「権利や機会や扱いが平等」を身をもって理解していない。

 「お上」の言うことは絶対だと思っており、陳情というお願い事はあっても自ら戦って権利を勝ち取るという考えは皆無に近い。民主主義においては権利は平等であり、その権利を勝ち取る機会は平等に与えられ、たとえ少数であろうと扱いは平等なのである。すなわち個人であっても政治を変えようと思えば変えることができるのである。その権利や機会や扱いは平等に与えられているのである。その変えようと言う意志が政治を方向付けるのである。この個人の意志がなければ民主主義は有効に機能しないし、無から有が生まれることもない。民主主義を通そうとすれば国民は政治に不信感と懐疑を持って処さなければならないし、少なくとも悪いところを直して行こうとする努力は必要である。

日本人が徹底的な個人主義でないことは幸いである。

 少なくとも個人個人がバラバラになることはないし、ガチガチの契約社会になることもない。性悪説に立った個人主義は悲惨であるが、日本人は性善説が前提であり、しかも個人主義に徹することもない。また、封建時代の遺産とも言える「人間的な信頼関係」を基調とする社会は理想的でこそある。無理矢理力で押しつける必要もないし、脅しや見せしめで震え上がらせて強制する必要もない。ただ日本人に欠けているのは自らの個人の権利意識である。日本の場合は民衆が国家から勝ち取った権利ではなく、外から一方的に与えられた権利であるためにその価値と必要性をしっかりと認識していないようである。民主主義はこの個人の権利意識からはじまるのである。

赤信号は誰のためにあるのであろう。

 日本人は赤信号では絶対渡ってはいけないと頑なに思い込んでいる。赤信号で渡ることはルール違反であり、信義に反すると思っている。しかし、赤信号は人や車を安全に通行させるためにあるのであり、確実に安全が確認できればたとえ赤信号であっても渡っていいのである(こんなことを言うと警察に怒られるかも知れない)。車が全く通行していない見通しのいい交差点で歩行者が横断歩道で行儀良く信号待ちをしている。日本人は律儀なのである。「お上」からお達しのあった決まり事は如何なることがあっても守るのが人間的な信頼関係を維持する上で必要だと思っているし、「お上」のお達しを破るような人だというレッテルを貼られると狭い日本の中で生きて行くのに支障がある。反面この律儀さは日本人の長所でもある。日本の犯罪率が低いのは警察が優秀なわけではなく日本人の律儀さ故である。

民主主義の世界では規則はみんなのためにある。

 公共の目的に反しない限り個人の自由に任せられており、赤信号でも自分の責任で堂々と平気で当然のごとく渡ることにもなる。もし事故が起きたら当然ぶつかった方もぶつけられた方も個人同士の責任であり、事故処理は当事者同士で解決する問題である。信号無視した方は事故が起きれば責められはするが、「お上」の信用を裏切ったとか、世間様に申し訳ないとか、自分の信義に反するという感覚はないし、安全であれば信号無視した者を咎める必要もない。当然ながら規則がおかしければじゃんじゃん直して行くもしくは考え方を変えて行くのが民主主義の流儀でもある。日本のように一旦みんなで決めたことはたとえ間違っていても変更できないと言うのを耳にすると民主主義の国からは病気ではないかと疑われることになる。

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