「心中」とは、本来は人に対して義理を立てることである。
真実を相手に示す証拠として爪を剥がしたり、入れ墨をしたり、断髪をしたり、指を切ったリした日本の歴史がある。子供がよくやる指切り拳万もこの名残りであり、ヤクザ屋さんが刺青したり指を詰めたりするのも心中の証である。 「心中」という言葉を使うにしても正しく使ってもらいたい。 例えば親子心中の場合である。本来であれば、親が子供に子供が親に義理を立てるためにお互いに自分の生命を犠牲にして相互が合意の上で決行されるのが「心中」であろう。
現代の「心中」は、どう考えてもそうは思えない。
親が子供を道連れに殺して自分も死のうとしているに過ぎない。親の身勝手な行動であり、子供の意思も人権も無視した行為だとしか思えない。 「心中」と言うと美談に仕立て上げられる。 日本の伝統的な文化として位置づけられる。しかしやっていることは殺人であり子殺しである。殺された子ども達が浮かばれない。せめて放っておいてもらいたいし、可哀想だと思うのは大きなお世話である。子供は別人格であり、親はなくとも逞しく生きていけるし、計り知れない可能性を持っている。私がいなければと思うのは大きな勘違いである。
未だにマスコミで「心中」という言葉が踊っている。
しかも、単に二人以上の人がともに自殺することを形だけで「心中」としている。さらに自殺者に事前に殺されたり強制された場合は「無理心中」という言葉を使って、何としても「心中」に仕立て上げようとする。ここは冷静に客観的に事実に基づいて報道してもらいたい。そうすれば、日本からへんてこな「心中」はなくなると思う。 「心中」は日本の伝統的な文化かも知れないが、 その行為は前時代的であり、後進国の封鎖的な行為でもある。現代には通用しないし、精神的な文化としては存在可能だが、そのまま実際の行為として行うことは到底許されない。昔の私的制裁や仇討ちに近い行為であり、先進国の法治国家では許される行為ではない。
少なくとも子供の人権はしっかり守ってやらなければならない。
判断能力や意思決定能力のない幼児はもっと悲惨である。 絶対に許されない行為であるが、どう言う訳か、幼児を巻き込んだ「心中」のほうがより同情感をもって美談に仕立て上げられるのは困ったものである。相思相愛の男女の「心中」もあるが、この場合も、現代ではほとんどがマスコミで言うところの「無理心中」で、完璧な「心中」は皆無である。昔も完璧な「心中」はほとんどなく、浄瑠璃や歌舞伎の世界で語られるのみではないかと思う。「心中」という言葉を使う時は是非とも注意してもらいたいものである。
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