繁の父は、昔から熱狂的なタイガースファンだった。実は「繁」という名前も、繁が生まれた年、昭和五十四年からタイガースで活躍した小林繁(こばやししげる)投手にちなんで名付けられたのだ。父は結婚前までは、未来の息子には「満(みつる)」と命名するつもりであったらしい。その出所はまたも『巨人の星』。主人公星飛雄馬のライバル、タイガースの花形満(はながたみつる)である。ではなぜ父は、息子を花形満のような強打者に育てようとせず、星飛雄馬と同じ、ピッチャーに育てたのだろうか? そんな繁の疑問についての父の答えは、「うちは金持ちとちゃうさかいや!」の一言だった。何とも説得力のある屁理屈だと思いながら、やや首を傾げつつも、繁は大きく頷いてしまった自分を憶えている。余談ながら、繁の三歳下の双子の妹たちの名は、「真弓(まゆみ)」「若菜」(わかな)」という。この調子でいくと、昭和六十年生まれの「バース」」なんていう名の弟がいてもおかしくないぐらいだと、ご近所や親戚の人たちの、笑い話のネタになっていたこともよくあった。
「あ、あの人や……」
三塁側のダッグアウトの奥から、チームメイトの肩越しにその人を見付けた繁は、思わず呟いた。自分が物心ついた頃には、既にあの人の躍るようなピッチングフォームのポスターが、家のあちこちの壁に貼られていた。玄関、居間、応接間、そして台所やトイレにまであの人がいた。あの人を見ながら育った。そうしてポスターでは毎日毎日見ていたが、ご本人の姿をこの目で実際に見るのは初めてだった。父の話によれば、あの人は元ジャイアンツにいたらしいが、何でもゴタゴタがあったとかで、タイガースに電撃トレードされたのだが、その後はタイガースのエースとして、それまでのゴタゴタを吹き飛ばすような大活躍をしたのだそうだ。そのゴタゴタの詳しい内容までは、父は教えてはくれなかった。しかしとにかく、あの人は繁の父にとって神様のような存在で、そしてその父の思いはまた、そのままの形で繁にも受け継がれていた。そう簡単には手の届かないはずの神様が、今、すぐそこに居る。繁の頭の中は、真っ白になった。そして鈍色(にびいろ)の天井も青い観客席も緑色の人工芝をも、白一色に塗り替えてしまった。それはまるで雪景色みたいであった。この雪景色の与えた自己暗示が、繁の肩を徐々に徐々に、冷やしていった。
(続く)
「あ、あの人や……」
三塁側のダッグアウトの奥から、チームメイトの肩越しにその人を見付けた繁は、思わず呟いた。自分が物心ついた頃には、既にあの人の躍るようなピッチングフォームのポスターが、家のあちこちの壁に貼られていた。玄関、居間、応接間、そして台所やトイレにまであの人がいた。あの人を見ながら育った。そうしてポスターでは毎日毎日見ていたが、ご本人の姿をこの目で実際に見るのは初めてだった。父の話によれば、あの人は元ジャイアンツにいたらしいが、何でもゴタゴタがあったとかで、タイガースに電撃トレードされたのだが、その後はタイガースのエースとして、それまでのゴタゴタを吹き飛ばすような大活躍をしたのだそうだ。そのゴタゴタの詳しい内容までは、父は教えてはくれなかった。しかしとにかく、あの人は繁の父にとって神様のような存在で、そしてその父の思いはまた、そのままの形で繁にも受け継がれていた。そう簡単には手の届かないはずの神様が、今、すぐそこに居る。繁の頭の中は、真っ白になった。そして鈍色(にびいろ)の天井も青い観客席も緑色の人工芝をも、白一色に塗り替えてしまった。それはまるで雪景色みたいであった。この雪景色の与えた自己暗示が、繁の肩を徐々に徐々に、冷やしていった。
(続く)