西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

北校舎 1

2006年01月13日 00時29分28秒 | 小説
 第一章


「これやから、学校へ出てくんのんは嫌やったんや」
 栗栖浩人(くるすひろと)は、自分の机のない三年二組の教室の片隅に佇(たたず)み、小声でぼやいた。
 鉄筋コンクリート三階建てのこの北校舎は、建設されてから既に十数年。未だに新館などと呼ぶ人もいるが、その割には中学校内の一番北側に位置していて日当たりも悪く、薄暗くて、外観もやけに煤ぼけた色をしていた。浩人自身もあまり好きではなかったそんな北校舎の三階の奥に、三年二組の教室はあった。
 《東野の流れのほとり……》と、その校歌に歌われる通り、この町のほぼ中心を南北に流れる東野川(ひがしのがわ)のすぐ東に、市立東野(ひがしの)中学校がある。その幅およそ十五メートルくらいであろうか、大きいような小さいような、川のような溝のような、水の色も冴えないこの東野川も、昔昔はたくさんの魚が泳ぎ、夜になると蛍も飛び交う美しい川であった。しかし浩人の生まれた昭和三十年代、高度経済成長期にその上流に建設された染色工場の排水により、いつしか汚染の川に変わり果てた。日によって、あるいは時間によって、赤、青、黄、そして緑…と、様々に色を変えるこの川は、また別の意味で、美しい川となった。そして昭和四十年代後半、「公害」という言葉が次第に一般化されるのにともなって、やがてその毒々しい極彩色は消えることになったが、それでもまだまだ、魚や蛍の遊ぶ川までには、甦っていなかった。
 浩人が自宅を出て十分ほど歩くと、この川の西側の堤防に突き当たる。そして道を左に折れ、堤防沿いの緩やかな坂道をしばらく上っていくと、古い小さな木の橋がある。人と自転車しか渡れないこの木橋は、毎日毎日、全校生徒千七百人の約半数が通る橋にしては、いつもぼろぼろで、大雨で川が増水した時には水に浸かり、あるいはその一部が流されて、渡れなくなってしまうこともしばしばあるという危ない橋。その危ない橋を渡ってすぐの所に学校の正門があり、正門を潜ってすぐ左手に、北校舎はあった。

(続く)