西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

北校舎 8

2006年01月22日 00時47分32秒 | 小説
 第二章


 学校に行く日も行かない日も、浩人はいつも家でテレビばかり観ていた。浩人の住む市営住宅は、市内といえども、はずれの田舎町にあり、付近に遊びに行けるような場所は少なかった。それに小学生の頃、学校を休んでいるくせに、秋祭りのお御輿(みこし)を担いでいたところを誰かに見られて、それを担任の先生に告げ口されたお陰で叱られたということもあって、そんな経験上、外出しないで家で好きなテレビを観ているのが、一番の安全策とも心得ていた。だから朝から晩まで観ていた。そんな浩人に母親は何も言わず、好きなだけテレビを見せてくれた。
 浩人の母、松江(まつえ)は五十六歳。四十歳の時、浩人を生んだ。当時では珍しい高齢出産にも拘らず、浩人は丈夫に生まれた。しかしそれも束の間、生後四十日目で急性肺炎にかかり、瀕死の赤ん坊は、深夜、救急車で病院へ運び込まれることになる。奇跡的に一命は取り留めたものの、それを含め十歳までに入院歴三回。病弱で、近所のいけ好かないオバハン連中からは、「鰯っ子」と陰口を叩かれるほどガリガリに痩せた子だった。
「あんたが弱いのんは、お母ちゃんのせいや」
 松江は、たまにそんなことを口にした。浩人を病弱な子にしてしまったのは、自分の責任だと言うのである。だから松江は、いつも浩人に優しかった。人から時々「過保護だ」とか「甘い」とか、指摘されることもある。そういった指摘に、勿論困惑を覚えなかった松江ではない。しかし松江には、浩人が学校へ行かなくても、テレビ漬けになっても、生きていてくれさえすればいい、そんな切実な思いがあった。また一方、浩人にしてみれば、松江のそういう自由奔放な育て方に逆に自活を促され、独り歩きを執拗に迫られているようで、そこにかえって厳しさを感じてもいた。そのように母親と息子の思いが交錯しながらも、やはり浩人は家でテレビを観ていた。だが父親は、そうは自由にさせてはくれなかった。

(続く)